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2017年11月17日金曜日

拓銀崩壊20周年に、20年後を考える! (改訂2)

今日は、2017年11月17日ですね。
新卒で勤務していた拓銀が崩壊したのが、1997年11月17日ですから、ちょうど20年ですね。
日経でも、特集をやっております。→ 「拓銀」を超えて 破綻20年、危機克服と地域再生に挑む

そんな訳で、少しノスタルジックに掛かっております。
あれから20年かあ。。。
長い様で、あっと言う間でしたねえ。。。
そんな感慨に浸っております。

さて、話は飛びます。
司馬遷の史記は貴公子の愛読書ですが、もっとも心酔するのは、劉邦でも項羽でもなく、悲劇の大将軍韓信です。
韓信が劉邦に仕えたからこそ、劉邦は天下を統一できた訳で、それだけの功労者であるにも関わらず、最後は、韓信の才能を恐れた劉邦に天下統一後に、用済みとされ殺害されました。
正に、哀愁を感じる天才です。
韓信の事を考えると、いつもすべての事が諸行無常に思えるし、同時に下らなく感じます。

その意味では、拓銀崩壊ごときは、貴公子のその後の人生においては、何の影響も及ぼさない、超些細でアホらしい出来事でしかないと言い切る!
拓銀ライフは、当時も今も、貴公子のビジネスマン人生に於いて、何かしらの影響力を持つ要素ではありませんなあ。。。
ましてや、拓銀から人生の糧となる様な教訓を得たと言う自覚は、皆無です。
強いて言えば、記憶にも残っていない人生の通過点と言った感じであり、「青春の輝く1ページ」みたいに、朝日新聞的な美化をするつもりもありません。

ぶっちゃけ、拓銀どころか、今の大手IT企業での技術者生活も、前職の日系グローバル企業での海外勤務も、貴公子の比国4年の激闘フリーター生活に比べれば、冗談みたいなもんです。
「どんなに忙しかろうが、精神的なストレスがあろうと、物理的に撲殺されることはない。」と言う一点のみにおいて、比国時代とは比較にさえなりません。
あの比国時代をサバイブした貴公子にとって、過酷過ぎる状況と言うのはあり得ないです。
尚、30歳からの4年間のマニラ生活はこちらに詳しく書いております。
全9回シリーズの序章はこちら。→ 激闘!マニラでの4年間(序章 マニラへの道) 

拓銀崩壊から20年であり、貴公子のビジネスマン生活は24年目になりますが、自分の未来どころか過去さえも賭けて、本当に全身全霊で自己の知力の限界で戦ったのは、比国の4年間だけでしたね。

さて、20年後に貴公子はどうしているのであろうか?
おそらく、まだバリバリに働いていると思いますが、「好きな仕事を続けながら、家族と一緒にいれれば幸せ!」とか、ヤワな事を、貴公子は言いません。

兎に角、バトルが、徹底的に足りない!
血も報酬も、両方足りないと言っても良いかも知れない。

もっと言えば、あの比国4年間に対する、報酬を受け取っていません。
カネに換算できる様なものでは勿論ないが、敢えて換算したとすれば、年収1千万円とか2千万円とか、そういうレベルではないですなあ、あの4年間に対する適正報酬は。。。

そんな事を、拓銀破綻20年を機に考えます。
もう一度、勝負して、完勝するしかないでしょうね。
そうでもしないと収まりがつかない気が、急にしてきました。

ただ、次回の勝負は、ガッツ体育会でなく、もっと洗練した形でやりたいですね。

今夜の名曲です。
拓銀1年目の1994年の大ヒットソング、山根康弘のGet Along Together .


1992年のヒットソング。小野正利、you are the only...
この曲には、個人的に思い入れがあります。

2014年2月24日月曜日

客観的になり切れない、人間のサガ。

ソチオリンピックも終了しました。
特に興味がある訳ではないが、深夜仕事から帰宅し、「ビールを飲みながら、何なくテレビを眺めながら、
日本人選手を応援する。」と言う意味で、少なくとも無関心では無かったと思う。

ただ、興味をもったのは、オリンピック競技そのものよりも、朝日新聞の報道。

「遊び」きった真央、間違いなく勝者(五輪コラム結晶)
http://www.asahi.com/articles/ASG2P5GZ9G2PULZU00H.html
>彼女は苦しさの極致に生まれる遊びを、最後にさわやかに遊びきったのだろう。
>間違いなく五輪の勝者だった。

確かに、一日目の競技(SP)で、大失敗しながらも、二日目の競技で、建て直し、結果として、
「そこそこの成績」を残した、浅田の精神力には、敬意を持ちます。
頑張ったと思う。
そして、浅田自身が自己評価として、満足できたのなら、尚、嬉しいとも思う。
>浅田真央はフリーの演技の後「うれしい。バンクーバーのリベンジはできた」とうれし泣きと笑顔をみせた。

しかしながら、周囲が(この場合は、朝日新聞を含めた、日本のマスメディアであるが。)、「間違いなく、五輪勝者」と、「事実を歪曲」する事は、情けなく思う。

指摘するまでも無いことだが、今回、金メダル最有力と事前予想されていた浅田にとって、金メダルどころか、表彰台にも上がれなかった事実は事実として、認めないといけない。
率直に言って、浅田は惨敗であり、国民は失望した。
勿論、世間がそう思うのと、浅田自身が、「うれしい。バンクーバーのリベンジはできた」と思うのは、全く別の話であり、浅田自身の自己評価は、尊重すべきだ。
一方で、客観性をウリにする、マスメディアは、「我々は失望した。なぜ、惨敗したのか?」と、浅田にインタビューをしないといけない。
それが、マスメディアの役割である。
「間違いなく勝者」と、事実歪曲し、謎掛けすることは、マスメディアの役割放棄どころか、危険思想でもある。

たかが、五輪スポーツと言われれば、その通りです。
目くじらを立てるのも、子供っぽいという批判はあるだろうが、それでも、言いたい。
こうした「事実の歪曲」こそが、政治経済も含めて、日本を劣化させる原因であると。。。。

事実を冷静に伝える。
つまり、客観性を保つ必要がある。
「経済は上向いている。」と、マスメディアは、競い合うように報道しているが、貿易収支や財政赤字と言った、マクロ数字を事実として見れば、嘘であることは自明だ。
こうした「嘘報道」を続け、現実から目を背け、一時の安楽さを求めるのは、人間のサガでもあるが、
日本人には、特に、その傾向が強い様な気がしている。
                
最近、メールくれた、Sさん(20代後半の中規模企業勤務?)に言いたい。
Sさんは、貴公子のマニラの熱い夜 で、インスピーレーションを受けている様で、ブロガーとしては、勿論、嬉しく思います。
ただ、「マニラの熱い夜シリーズ」の記事中でも、何度も書いたが、貴公子のしていた事は、「エキサイティングで、心躍る挑戦の日々」なんて言う、美しい話では全く無く、「苦悩と失望とやるせなさの中で、何とか前に進んだ、しょうもない日々」です。
貴公子は、朝日新聞の様に、こういう所で、「事実歪曲」はしません。(笑)
現に、第6章では、下記の様に、記載しております。

激闘マニラでの4年間 (第6章 マニラ日本人社会)
http://kanashimi-kikoushi.blogspot.jp/2010/06/blog-post_10.html

>正直に告白すれば、そう言われた時は悔しかったですねえ。
>因みに、その様に、面と向かって言われた時も、表面的には無表情であった筈。
>そういう時に、感情を顔に出す程、アマチュアではないと自負しております。(笑)
>しかし、しばらく経って、ボスの率直な発言に感謝する様になりました。
>どういう事かと言えば、下記の様に考えるに至ったからです。
>「如何に、高邁な思想を掲げ、比国のローカル社会で頑張ろうと、それは単なる自己満足に
>過ぎない。
>比国で死にそうになりながら、月給3万円で一日15時間、仕事している日本人(貴公子の事)
>なんて、一般的な日本人社会から見れば、単なるルーザーでしかない!」

そうなのです。
如何に、高邁な思想を掲げ、自己満足していたとしても、外部から見たら、単なる変わった人間でしかないし、ルーザーでしか無いわけです。
Sさんが、どういう選択をするかは、勿論、Sさんの自由意志だし、その決定を尊重し、敬意を払います。
ただ、Sさんが、貴公子の様なマネをしようとしているのなら、その行為は、10年前の貴公子がそうであった様に、「外部から見たら、負け犬としか写らない。」と言う、客観的事実を、全面的に受け入れないといけないとダメだと思う。

朝日新聞的に、あるいは、日本のマスメディアの見出し的に、「途上国ビジネスで、全力で挑戦し続ける、日本の熱い若者達。 ~ 世界を目指す若い力。」なんて言う風な話を作るつもりは、全くありません。
そうした、下らない美談は、Sさんを不幸にします。
(自分自身が、嘘に酔ってしまうので。。。)
Sさんには、「単なるルーザーでしかない!」と言う事を、認識した上で、それでも、「どん詰まり人生の局面転換のギャンブルの為にやってみる。」と言う、厳しい意識を片時も忘れる事無く、飛び込んで欲しいと思います。

そして、最後にひとことだけ加えます。
頑張って欲しい。
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2012年1月24日火曜日

夢多き若者の意欲を挫く様で、誠に申し訳ないが、あまり意味がないですね。

日本経済新聞電子版の記事です。
http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A96889DE1EAE0E3E2EBE6E2E0E0E2E3E0E2E3E08683E6E2E2E3

「国境なき就活 若者、片道切符で成長市場アジアへ」と言うタイトルの記事があったので、
30歳前半の過去の自分(詳細は、本ブログ、「 マニラの熱い夜 」参照。)に、重ね合わせて、期待して読みました。
しかしながら、正直、期待外れでしたねえ。
率直に言って、現地採用を美化しすぎです。

(以下、引用)
==============================================================
活躍できる職場を求め、海外で就職先を探す若者が目立ってきた。閉塞感のある日本を飛び出して向かうのは、アジアの新興国。高度成長のまっただ中に身を置く高揚感があり、世界市場を肌で感じながら働くことができるからだ。20代から30歳前後は内向き志向が強いと指摘される世代だが、現地採用という“片道切符”の道をあえて選び、将来のキャリアを見据えて自分磨きに努めている。(後略)
==========================================================

書き出しは勇ましかったが、この記事で、具体例として取り上げられている「海外で就職先を探す若者」は、全員、東南アジアでの「日本企業現地採用希望組」ですねえ。
確かに、「兎に角、海外に行きたい!」と言う気持ちは十分に理解するが、「日本企業の現地採用」を最初から、狙う事自体が既に、Domesticですねえ。

なぜ、東南アジアに突っ込むのに、東南アジアの会社を狙わないのか?
なぜ、海外にまで、わざわざ行くのに、日本企業の現地採用を最初から狙うのか?
そもそも、東南アジアの日本企業に於ける、現地採用の実態を分かっているのか?

私が4年間働いていたフィリピンでは、日本企業の現地採用の日本人は、英語は勿論、タガログ語が話せるのがデフォルトです。
語学一つとっても、この程度の準備は最低限必要なのに、本当に、準備ができているのか???

それに、給料が安いのは、「修行期間」として納得ずくでしょうが、「日本企業の現地採用日本人」の立ち位置と言うのは、難しいですよ。
「日本人だから、現地スタッフよりも、給与面でも人事面でも優遇されて、重要な仕事が任せられる。」と勝手に思い込んでいるのではないか?

私が、2000年代前半に、比国マニラの日本企業で働く現地採用スタッフを見ている限り、現地採用の日本人立場は、日本人駐在員よりも
圧倒的に低いのは勿論、現地スタッフよりも、言葉や文化対応力で劣るので、彼ら以下の立ち位置です。

従って、「海外でキャリアを積む!」なんて、目を輝かせて、行かない方が良い。
(夢を砕くようで、本当に恐縮だが。。。。)
特殊技能を持つエンジニアとかなら、全く話は別だが、平凡な大卒が、変なロマンを持って、東南アジアの日本企業現地採用になんて、行かない方がいい。
あまりにも、中途半端です。
キャリア的にも、そうです。
前述の様に、重要な仕事なんて任せられないし、語学面だけを取ったて、所詮、日本企業だから、高いレベルの語学力は付かない。

たた、現地の雰囲気に何となく触れるだけで終わって、年だけとって、日本に帰ってくる事になる事を、心から危惧します。
本当に、腕一本で、勝負をかけるのなら、必要な語学力を持った上で、東南アジアの現地企業に、飛び込んで、勝負をすべき。
その自信がないならば、日本にある日本企業で、少なくとも3年は働いて、何かしらの技能を身に着けてから、海外に飛び込むべき。
お節介なのは、十分承知ですが、「日本人だから、現地スタッフよりも、給与面でも人事面でも優遇されて、重要な仕事が任せられる。」と勝手に思い込んでいる、夢多き若者(笑)に、後悔してもらたくないので、書きました。

気分を害してしまったのなら、謝ります。

2011年8月30日火曜日

激闘マニラでの4年間 (第9章。終章、そして、あの4年間の総括)

本シリーズはこちら。→ 激闘マニラの熱い夜

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序章から購読していた(笑)読者の方には、繰り返しになりますが、結局のところ、30歳の時に色々な理由があり、比国に単身渡り、フリーター生活を開始し、2004年まで4年弱に渡り、現地で勤務しました。

渡航当時は、いっぱしのビジネスマンのつもりでしたが、比国のSI企業勤務してすぐに、自分のITエンジニアとしての知識・経験の無さ、及びビジネスマンとしての甘さを痛感しました。
ただただ、一生懸命に、愚直に、正攻法でSI営業をしましたが、かの国のビジネスカルチャー、言葉の問題(英語ではなく、タガログ語)、そして日常生活のすべてで、壁にぶち当たり、深く苦悩しました。

まあ、私も若かった!
あの月給3万円の「極貧生活(笑)」と危険と隣り合わせの日常の中、さらに、先の見えない、どん詰まり生活の中で、よくヤケになる事もなく、努力を続け、生き延びる事が出来たと思う。
もう一度、同じ事をやれと言われても、もう出来ませんね。(笑)

一般の日本のビジネスマンにとって、30歳前半は、本来、人生の一番楽しい時期ですよね。
と言うのも、所属する企業で、仕事も一通り覚え、重要な仕事も多少は回ってくる一方で、後輩も増えてくるので、嫌な仕事をある程度、ぶん投げられるし(笑)、何より、独身なら、ある程度の金もあるので、真っ赤なスポーツカーでも乗り回して、一番、女にモテる時期ですよね。。。。
そういう楽しさは、私の場合は無縁であったので、多少、心残りはありますねえ(笑)。

貴公子の場合、30歳前半は、正に人生のどん底であり、正念場でありましたねえ。
ビジネスマンとしてのプライド、空手家としての不屈の根性、そして日本人としての誇りだけを最終的な軸として、文字通り、死に物狂いで働き、そして、ど突き合いの中で、生き残った!
(勝ち残ったのではなく、殺されなかったと言うのが、正直な感想です。)

「尻尾を巻いて、日本に逃げ帰ること。」は、自分の未来だけではなく、自分の過去のすべてを、否定することだと言い聞かせて、かの国の腐敗官僚や、悪徳不動産屋、街中のチンピラ、そして、現地採用の人間を人間扱いしない、かの国に赴任している「日本企業の駐在員様(笑)」と、うんざりする様なせめぎあいをし続け、そして、生き残った。

楽しい30台前半ではなかったが、Global BusinessをFieldレベルで推進するビジネスマンとしては、いい勉強にも、貴重な経験にもなった。
まあ、高すぎる授業料ではあったと思うが、元は何とか取り返したと思っている。

何度も本件に関し、メールをくれたBさん、Dさん、Zさんに、言いたい。
簡単に、「あなたも閉塞感を感じているのなら、東南アジアに単身乗り込んで、自分の力だけで、生き抜いてみなさい。」とは言えません。
なぜなら、怖さとか、恐怖を、自分の肉体を通して知っているからです。
ただ、これだけは言えます。
「日本の一般的なビジネスマンなら、30歳前後で、失うものなんて、何も無い筈です。守るべきものなんて、何一つ無いのに、そんな気になっているだとしたら、一生、冒険はできませんね。市役所かなんかに転職した方がいいと思います。その方が、ある程度、安定し、保証された人生を送れるでしょうから。仮に、野垂れ死んだって、平均よりも40年位、寿命が縮じまる位の事で、大したリスクはない。」とだけ言っておきます。

要は、「貴様の命なんて、貴公子の命同様に、大した価値はない。世の中に不可欠な人間なんていない。」と言う事です。

無事に、数年後に日本に戻ってくることになったら、その際は、一杯、東京で行きましょう !

2011年5月18日水曜日

【激闘マニラでの4年間】 第8章。喧騒と焦燥のはざまで、日本への帰国。

前号、第7章で、比国3社目での経験を下記の様に書きました。
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この3社目の経験は、ITエンジニアとして、大きく飛躍する機会だったと思う。
実は、この3社目に就職を決める直前に、日系の中堅商社マニラ支店から、将来の本社採用約束での現地採用オファーがあり、少し迷ったが、やはりITが好きで好きでしょうがないと言う面があり、現地採用のIT Managerを選んだ。
この時、年齢は、32歳。 2003年6月の事だった。
(中略)朝6時半に家を出て、帰宅は夜10時頃、勤務は月から土と言う週休1日で、日曜日もそれなりに出社したが、この大規模NETWORKと戦うのが、楽しくて楽しくて、しょうがなかった。
この頃は、夢の中でも、サーバやルーターの設定をしていた。
(中略)やることは腐るほどあったが、楽しくしょうが無かったというのが、当時の気持ちです。

=============================


ここの会社には、本当にお世話になりました。
思えば、2001年春に、地縁も血縁もないフィリピンに、単独乗り込んでから、予想外の厳しさに、本当にめげそうになりました。警察官からの脅迫、悪徳不動産会社から、大金を騙されたことと、それを奪い返した事、そして、汚職役人からの告訴と、裁判所からの召還等、泣きたくなる様な事は沢山ありました。
そうした困難を、ビジネスマンとしてのプライドと、空手家としての不屈の精神のみで、何とか乗り切りながらも、精神的にはすさんでいた時期に、手を差し伸べてくれたのが、この3社目の会社でした。


勿論、現地採用の身分だったけど、それでも、現地採用スタッフに対する愛情と、ケアを感じました。それまでのマニラ生活では、「すべてを自分で解決するしかない。」と片意地を張って生きていたが、この3社目で、やっと安心して、生活を楽しむ余裕が出来たし、結果として、仕事に集中することができました。
(この頃は、マニラから車で、3時間程度の地点での、スキューバーダイビングに嵌り、ほぼ毎日曜日に、終日、ダイビングをやっておりました。)


最終的に、この会社では、1年半程、お世話になりました。
確かに、給料の話をしてしまえば、東証1部に上場している様な会社とは、大きな差が出てしまうのでしょうが、それでも、素晴らしい同僚に恵まれ、ITエンジニアとして、周りから信頼を受けた、とても充実した期間でした。
本当は、この会社にずっと勤務したいと思っていたのですが、2004年秋に、個人的な事情で、日本に帰国さざるを得ない状況となり、2004年9月に辞表を出しました。
本来、計算高い私(笑)は、「次の就職先を東京で決めてから、辞表を出す」様な嫌な人間なのですが(笑)、この会社においては、そういう、「駆け引き」をしたくなかったので、東京で、就職活動を開始する前に、辞表を出しました。


すると、この会社の社長は、「辞表は、受理しない。東京で新しい仕事が決まるまでは、ここにいて欲しいし、どうしても決まらないなら、日本の関西圏にある、提携会社を紹介するから、今は辞表を引っ込めてくれ。」と言って下さいました。
この時の感動は、一言では言えません。こうして、半ば会社公認で、転職活動を始めました。
利用したのは、インテリジェンスと言う、東京にある、転職斡旋会社。(Head Hunting会社)
履歴書を出し、「東京にあるSI企業の技術職か、技術営業職、あるいは事業会社のIT部門なら、どこでも可。」と言う要望を出し、後は、待ち。
確か、10日間で、大小含めて、10社程度から面接のオファーがあり、木曜日日本帰国、日曜深夜比国戻りの様な生活を、4週間位、続けて、某大手日系グローバル会社のITエンジニア職で採用が確定しました。
2004年10月下旬の事です。(因みに、この会社には2011年現在、勤務中です。)


ここからが忙しかったですね。(笑)
毎晩の様な比国での、送別会と称した呑み会と、仕事のラストスパート。
また、いよいよ去ると思うと、変にノスタルジックになってしまい、比国中をウロウロしてしまいましたねえ。(笑)
兎に角、あの4年間は、最初の辛い激闘2年(笑)と、残りの安定・充実の2年(笑)でしたね。
「あの4年間の思い出だけで、残りの人生を生きていける!」と思った程、充実した4年間だったし、今でもそう思っております。
次回で、「マニラの熱い夜」は、終息します。そして、総括します。(笑)
請う、御期待!

2011年1月6日木曜日

激闘マニラでの4年間 (第7章 転機!比国3社目への転職)

前回(第6章、マニア日本人社会)で、下記の様に書きました。


(以下、引用)
============================================================
2社目に勤務した、日比合弁企業の日本人ボスは、「現地採用のお前の様な人間は、クズだ!」と、現地採用の私の前で、いつも吠えておりました。
(中略)
正直に告白すれば、そう言われた時は悔しかったですねえ。
因みに、その様に、面と向かって言われた時も、表面的には無表情であった筈。
そういう時に、感情を顔に出す程、アマチュアではないと自負しております。(笑)
しかし、しばらく経って、ボスの率直な発言に感謝する様になりました。
どういう事かと言えば、下記の様に考えるに至ったからです。
「如何に、高邁な思想を掲げ、比国のローカル社会で頑張ろうと、それは単なる自己満足に過ぎない。比国で死にそうになりながら、月給数万円で一日15時間、仕事している日本人(貴公子の事)なんて、一般的な日本人社会から見れば、単なるルーザーでしかない!」
あの時の、あの駐在員のボスの言葉が、ある意味、転機でしたね。
客観的な事実を、目の前に容赦なく、叩きつけられた様な気分でした。
目が覚めましたねえ。(笑)
============================================================


2社目での、この独裁的な日本人ボスの言動が、トリガーとなりました。
15ヶ月勤務した1社目の給料は、3万円で、この2社目の給料は、SI(システムインテグレーター)の営業職として、当時のレートで8万円の給料でした。


この8万円という給料は、比国において、普通に生活するには、必要十分な給料でありました。
この2社目に転職してから、家賃が4万円のMakati地区(マニラ随一の高級住宅街)のプール付きのコンドミニアムに引越しをした程です。


また、そもそも貴公子は、昔からストイックなところがあるので、この頃のマニラでの休日の過ごし方も、質素なものでした。
つまり、日中は、自宅でTIMEやNewsweekと言った週刊誌や、仕事関係の技術書を読み、夕方は、近所の公園で空手の練習を一人でして、そして夜は、入場料150円の映画館で、ハリウッド映画を楽しんだ後、近所のちょっとしたレストランで、ビールを飲みながら、考え事をすると言った程度でしたので、十分とは言えないまでも、8万円で普通に楽しく、生活をしておりました。


ところが、上述の「率直なボス」のおかげで、「月給8万円で、毎日、限界まで仕事をし、そして、マニラでの質素な生活に満足している自分が、周りの日本人からは、単なる『変わり者』としか見られていない。」と言うことに気が付き、突然、馬鹿らしくなりました。


如何に高邁な思想を掲げようとも、単なる自己満足に過ぎないと痛感し、目が覚めました。
そうしたことから、転職を考え始めました。
但し、まだこの頃、日本に帰国する気は全くありませんでした。
(兎に角、まだ日本社会や日本企業に絶望していた。)


また、この頃、ある顧客に、無線Network機器を販売、設定した際に発生した無線局とのトラブルも、トリガーとなりました。
この無線局とのトラブルの始まりは、貴公子自身が無線局に赴き、無線機器を使用する為の適正なライセンスを取得し、その上で、顧客に販売した事に始まります。
ところが、比国の無線局役人は、お約束どおりに、後日、「お前の取得したライセンスは無効だ。無線法違反で、刑務所にぶち込む。」と、いつも通り、始まりました。
まあ、いつものお約束通りの言いがかりで、1万円程度の「袖の下」を渡して収めるか、あるいは、より「位の高い」政府高官とのコネを使って、問題を押さえつけるのが、かの国の常識であるし、「ゲームのルール」であるのだが、かの「率直なボス」を始めとした、その会社の上層部は、(会社としての合法的販売行為であるのに)、この問題を貴公子個人の問題へと帰納し、責任を貴公子に押し付けて、会社として、逃げようとしました。
ここで、貴公子の自己防衛本能が働きました。
つまり、こうしたボスがいる会社で仕事をする事の危険を感じ、この2社目から逃げようと真剣に考えたのでした。


後になって、この話を何人かの知人にすると、何人かは、自分の事の様に怒り狂ってくれて、それはそれで嬉しいのですが、実を言えば、私自身は、この会社にも、ボスにも、当時も今も怒りは全く感じておりません。
それどころか、失望さえもしませんでした。
どう言うことかと言えば、貴公子には、昔から非常に冷めた部分があり、「まあ、世の中の過半の人は、自己保身に必死な人達だから、あのボスも、そういう『よるあるタイプの人』だったんだなあ。。。。むしろ、そういう『よくいる人』を必要以上に買い被ってしまった自分自身の人を見る目の無さが恥ずかしいなあ。。。」と、当時も考えたし、今でも思っております。
要は、必要以上に簡単に他人を信用しないから、失望する事もあまりないと言えると思えます。


因みに、もし、あのボスと、明日、東京のどこかでバッタリ会ったら、その辺の居酒屋で、マニラでのバカ話をしながら、楽しく酒を呑めると思えます。
その位の分別と言うか、割り切り感は持っている筈です。


そういう訳で、自分でも驚くほど、冷静に、そして瞬間的に転職しました。
転職先は、懇意にしていた客先で、日系でも比国系でもない外資系企業。
職種は、IT Managerで、給料は、2社目の3倍以上と言うセレブな転職でした。
と言う訳で、2社目は、10ケ月でおさらばでした。


この3社目の経験は、ITエンジニアとして、大きく飛躍する機会だったと思う。
実は、この3社目に就職を決める直前に、日系の中堅商社マニラ支店から、将来の本社採用約束での現地採用オファーがあり、少し迷ったが、やはりITが好きで好きでしょうがないと言う面があり、現地採用のIT Managerを選んだ。
この時、年齢は、32歳。 2003年6月の事だった。


この会社は、PC1000台以上の大規模NETWORKを抱えていたが、いわゆるワークグループ設定での運用で、基本的なセキュリティ設定が全くできていなかった。
この3社目に在籍した1年半は、このNETWORKを、「それなり」にすることに尽力しました。
朝6時半に家を出て、帰宅は夜10時頃、勤務は月から土と言う週休1日で、日曜日もそれなりに出社したが、この大規模NETWORKと戦うのが、楽しくて楽しくて、しょうがなかった。
この頃は、夢の中でも、サーバやルーターの設定をしていた。


1年半で行った作業は、LANケーブルの張替えを含むNetwork Infra基盤の整理、旧式なデジタル電話交換機を、新型で大型のIP PABXへとアップグレード、NTTとの協業によるWANの再設定及び高速化。
そして、DNSサーバ設定によるLANのドメイン化。 Firewall設定に拠るSecurity強化、L3 SWによるLANのセグメント化。
プロキシーサーバ、メールサーバの再構築等。
やることは腐るほどあったが、楽しくしょうが無かったというのが、当時の気持ちです。


「この3社目で、Network Engineerとして必要な経験をすべて積むことができた。」と今になって、と
思います。
とここまで書いて、本日は挫折。
このマニラシリーズは本日で完結させる予定でしたが、続きとします!

2010年6月10日木曜日

激闘マニラでの4年間 (第6章 マニラ日本人社会)


つい先日、マニラ時代の同僚(J氏)からメールを貰いました。
(彼は、未だ某日系中堅企業の駐在員として、マニラ勤務しており、既に、在マニラ10年を超えております。)
マニラには、マニラ新聞と言う日本語の新聞があり、その新聞には、最近、「新移民日記」と言う日本人社会に関するコラムが有るようです。
J氏は、そのコラムのいくつかをPDF化して、親切にも添付してきてくれました。(有難う!)

その記事を読んでいて、私も、あの日本人社会を思い出しました。

という訳で、今回は、「あの日本人社会」について、書いてみようと思います。
率直に言いましょう!
比国の日本人社会に3つの階層があります。
それはまるで、インドのカースト制度の様です。(笑)
最高位は、日本企業から派遣されている駐在員です。
第2位は、比国企業に勤務している現地スタッフ。
第3位は、ただ、うろうろしている日本人。
因みに、駐在員とそれ以外の差は大きいです。
一方、第2レイヤーと第3レイヤーは、殆ど一体化していると言うのが私の理解です。
私は、第2レイヤーと第3レイヤーを行き来しておりました。
ついでに言えば、駐在員の世界にも、大商社系等の第一線級と、中堅企業からの準一線級で、
身分が全然違います。特に、駐在員の奥様連中の間では、その差は歴然としており、
江戸時代の旗本と足軽同心位の差別が有るようです。(まあ、くだらない話ですが。)
2社目の小さな日比合弁企業に現地採用で勤務していた10ヶ月間の事を書きたいと思います。
その事務所には、駐在員の日本人ボスが一人だけいましたが、そのボスの差別意識は凄かった。(笑)
「現地採用のお前の様な人間は、クズだ!」と、現地採用の私の前で、いつも吠えておりました。
今でも、忘れないのが、私がある程度の売上を上げた時に、「褒美」と言う意味合いで、典型的な日式カラオケ(隣に若いオネーチャンが座る様なカラオケ。2時間、一人5千円程度。)に私を連れて行き、下記の様に言い放ちました。
「これが、俺ら駐在員の世界だ!現地採用のお前は来たことも無いだろう!」
「売上を上げて、俺を満足させたら、また連れてきてやる!」
正直に告白すれば、そう言われた時は悔しかったですねえ。
因みに、その様に、面と向かって言われた時も、表面的には無表情であった筈。
そういう時に、感情を顔に出す程、アマチュアではないと自負しております。(笑)
しかし、しばらく経って、ボスの率直な発言に感謝する様になりました。
どういう事かと言えば、下記の様に考えるに至ったからです。
「如何に、高邁な思想を掲げ、比国のローカル社会で頑張ろうと、それは単なる自己満足に過ぎない。比国で死にそうになりながら、月給3万円で一日15時間、仕事している日本人(貴公子の事)なんて、一般的な日本人社会から見れば、単なるルーザーでしかない!」
あの時の、あの駐在員のボスの言葉が、ある意味、転機でしたね。
客観的な事実を、目の前に容赦なく、叩きつけられた様な気分でした。
目が覚めましたねえ。(笑)
前置きが長くなりましたが、貴公子の意見を述べましょう!
冒頭で述べた、「新移民日記」の記事は、そうした現地採用社会や「比国でうろうろしている日本人」の実像を描いたもので、私としては、ノスタルジーには浸れる面白い記事だ。
そうではあるが、同時に、記事内容のレベルは低い。
国際ビジネスが、欧米、中国、インド、そして「わが祖国、日本」を中心にダイナミックに
動く中で、泥沼を這い回る様なビジネスを、あえてする必要もないし、ましてや、そこに変なロマンや幻想を見出すべきではない。
もし、そこに生きがいを見出しているのだとしたら、それは、ビジネスの世界の話ではなく、NGOとか個人の趣味とか、あるいは冒険家とかの「非ビジネスの世界」の話だ。

泥沼での殴り合いは、それはそれでエキサイティングである事は認めるし、私もそう思っていたが、国際ビジネスマンであるならば、大海を泳ぐ事を目指すべきだ。

以前も書いたが、「若者よ、楽に生きろ!」とは決して言わないが、「くだらない苦労はすべきではない。」と、何度でも言いたい。

もう一度言います。
「東南アジアでの現地採用に変なロマンを持つべきではない。」

2010年2月7日日曜日

激闘マニラでの4年間(第5章。番外編)

フィリピン・マニラでの現地採用ストーリーに関しては、多くの人から多数のコメントを頂きます。
厳しいコメントも、温かいコメントも、シニカルで頭に来るコメント(笑)もありますが、兎に角、コメントを頂けると言うことを、ブロガーとして、素直に感謝したいと思います。
今後とも、御購読をよろしくお願いします。(笑)
ところで、フィリピン現地採用ストーリー(現在、第4章まで完了)の「連載」が終了してから、「総括的」に書こうと思ったのですが、勘違いしてしまう若者がいる様なので、今、総括したいと思います。
若者Fよ、君の事だ!(笑)
確かに、フィリピンマニラでの4年間の生活は、キツかった。
浪人1年を含めた大学受験時代や、北海道拓殖銀行での孤独な勤務時代(笑)、フィリピン帰国後の、上海における2年間に渡る欧米企業との国際ビジネス等もすべてキツかったが、フィリピンマニラでの4年間の過酷さは、レベルが違った。
「いつどんな言い掛かりを付けられて逮捕されるかもしれない。」とか、「熱帯性の病気になって、現地で病院にかつぎこまれても、『金を無い奴は診ない!』と宣言されて、放置されるのではないか?」とかの恐怖が常にあった。
「魔都マニラ」、正にそう言える場所であった。底知れぬ恐怖を感じた事が何度かあった。
そうした「恐怖の環境(笑)」の中で、サバイブする為に、大して優秀でもない頭をフル回転させて、凌ぎまくったと言うのが現実です。
(前にも言いましたが、フィリピンから逃げることは一番簡単だったんだろうが、中途半端で逃げることは、自分のアイデンティティが崩壊する様な気がしたので、それだけはしたくなかった。)
「スタイリッシュなマニラ生活」なんて形容は程遠いし、泥臭く生き残ったと言うのが現実です。
(どちらかと言えば、大学卒業までは、ライフスタイルも服装も、スマートな感じの貴公子だったのですが。。。)
従って、あのキツい4年から、私なりの結論を言えば、「くだらない苦労はしない方がいい。」と言う事ですね。
先日、私にメールをくれた若者Fに向けて、もう一度、言います。
「世間の人は、『若者は苦労しろ!』と簡単に言うが、そういう事を簡単に言う人に限って、ぬくぬくと生きてきた人が多い。くだらない苦労は、やはりしない方がいい。」
私のフィリピンマニラでの4年間も、海外勤務の経験を積むとか、「独力で生き抜いてみたい!」と言う自己満足を満たすためには、意味があった。
そして、最終的には、「廃人になることもなく、フィリピンから戻ってきた。」と言う事自体に、満足はしております。
ただ、海外勤務の経験を積むにしても、どっかの大企業から、手厚い福利厚生に守られて赴任し、欧米の大企業と大きなビジネス取引の経験をした方が良いに決まっております。
「1000円とか2000円のビジネス取引の為に、ジムニーやトライシクルに乗り込んで、一日を掛けながら、汗だくになり、ペコペコ頭下げながら、ビジネスをする。」なんて事は、サバイブする為には必要であったが、まともな国際ビジネスマンが体験するマトモな苦労ではない。
確かに、「命のやり取りをする様な」と言ってもいい位の苦労はしたが、あれだけの事を、
ビジネス環境の整ったアメリカとか日本とかでやれば、「ビジネスマンとして、もっと大きくなれたのでは?」と、今でも思います。
もう一度、言います。
基本的に、貴公子がフィリピンで体験したのは、「くだらん苦労」です。
これは、揺るがない事実です。(笑)
そして、「くだらん苦労は、しないに越した事はない。」と言い切ります。
「楽に生きろ!」とは言いませんが、「する価値のある苦労をすべきだ。」と言いたい。
また、「若者は、苦労すべき!」とも言いません。
何度でも言いますが、「意味のない苦労は、意味がない。」と言います。
もっとも、「徒労状態」に置かれても、劣悪な環境下ながらも、何かしらの「果実」をもぎ取ると言う「ド根性」は必要でしょうし、それを、あのマニラでの4年間で成し遂げたと言う自負だけは、ささやかながらありますがね。。
本カテゴリーはこちら。⇒ マニラの熱い夜

2010年1月17日日曜日

激闘マニラでの4年間 (第4章。マニラ生活での心構え。)


お断り: 誤解の無い様に断っておきますが、私は、何だかんだ言っても、フィリピンは好きだし(だから、4年間も住んでいた。)、日本人にはない、フィリピン人のいい所も理解しているつもりです。従って、記載内容に関わらず、フィリピンを侮辱している意図はありません。だだ、国際勤務の現実を紹介したいと言う意図のみがあります。
 

突然ですが、鈴木宗男事件で有罪となった元外務省主任分析官の佐藤優が書いた本は、
処女作「国家の罠」も含めて、ほとんどすべて読みました。
知的に面白かったし、特に「国家の罠」で強調されていた「検察にハメられた。」との主張は、ある意味正しいのでしょう。
昨日も、政界で民主党の小沢一郎幹事長の資金管理団体の元秘書が3名逮捕されましたね。
その中でも、主犯格の石川知裕衆院議員も、「検察にハメられた。」みたいな事を言っております。
 
私がマニラで月給3万円で、サラリーマンをやっていた頃、至る所で、トラップ(罠)をかけられました。
実際に、騙されてそれなりに痛い目にあった事も何度かあります。
ただ、私は「ハメられた」とか言って、大騒ぎするつもりはないですね。
その意味で、私から言わせれば、佐藤優にせよ、石川知裕にせよ、見苦しいと言い切ります。
と言うのも、ハメられる前に、知力を尽くして、自己責任で危機を回避するのが、ビジネスマンとしての腕の見せ所であるからです。
また、仮にハメられたとしても、それは自分が危機管理能力の貧弱さを反省すべきで、声を大にして、
他人に責任転嫁をするのは、本末転倒です。
 
私のフィリピンでの生活もそうでした。
「最終的には、誰も助けてくれない!」と最初の数カ月で、肝に命じました。
それどころか、最初の100%フィリピン資本の比国企業でIT営業マンをしている時には、
「ごく普通」に手柄(売上)は、同僚に横取りされました。(笑)
ただ、「外国で、何のバックもない外国人が外国企業に勤務をすると言うことは、そんなモンだ。」と思っていましたので、何とも思いませんでした。
つまり、差別されたり、侮辱されたり、騙されたりするのは、当たり前だと思っていたので、差別された事を、当時も今も、別に恨みには思っておりません。
むしろ、「世界の現実を教えてくれた。」と感謝したいくらいです。(笑)
 
「なぜ、そう思うのか?」と言われれば、理由は簡単。
「外国人だから、差別されるのはDefault。ただ、それだけ。」と何度でも答えます。
逆に言えば、「差別されたり、ハメられたりするのがDefault」だと思っていたので、たまに少し親切にされたりすると、結構、感激したりしましたね。
因みに、この時のシビアな経験は、後に上海で2年勤務する事になったと際にも役立ちました。
 
私の長い海外勤務の経験から、海外勤務の適性がない人間と言うのは、簡単に見分けられます。
一言で言えば、「外国人だから、差別されたり、煮え湯を飲まされるのが当たり前」と割り切れる、いい意味での「単純な人間」がどうかが重要です。
その意味で、佐藤優みたいに、ハメられた後で、「論理的におかしい。」なんて公言する様な理屈っぽい人間は、基本的に海外勤務に向かない。
 
兎に角、こうしたマニラ生活で、適度に騙されたりしながらも、決定的には、ハメられることはありませんでした。
色々な人間(フィリピン人も日本人も)が、近づいてきて、利用しようとしたり、金をだまし取ろうしてきましたが、
大きく騙されたり、決定的にハメられる事は無かったですね。
「その場の状況に応じて、自力で切り抜けるしかない。誰にも頼れない。」と常に心に刻んで、行動しておりました。
 
次回の更新では、具体的な問題に関して、どう対処したかを具体的に記載したいと思います。

2009年11月23日月曜日

激闘マニラでの4年間。(第3章。現実に目覚め始めた数ヵ月後。)


前回までに、フィリピンマニラにある比国資本100%の企業で、仕事を始めた事を書きましたので、ここからは、フィリピンでの仕事と生活を書かないといけないのですが、正直、あまり書きたくありません。
この後ろ向きな気持ちが、本件に関し、更新が遅れた理由です。
とは言いつつも、今日は、頑張って書いてみます。(笑)
 
張り切って、マニラにあるフィリピン企業で、月給3万円で働き始めたまではいいのですが、数ヶ月も経たない内に、現実を思い知る事になりました。
皆さんには、想像もつかないでしょうが、一般的なフィリピン人居住エリアで、外国人が一人で住む難しさや、純粋なフィリピンの会社で外国人が一人で働くことの困難さに、次第に気がつき始めました。

「200円でビール付きの夕食を屋台で食べる。」という事を、最初の数週間は、確かにエキサイティングに感じたし、ジムニーやトライシクルという乗り合い自動車や乗り合いバイクに、乗ること自体に興奮したのも束の間で、数ヵ月後にはうんざりし始めておりました。
「『いらっしゃいませ。』と迎えられ、席に案内され、水とおしぼりを持ってきてもらいたい!」 つまり、Serveされたいと心の底から思い始めました。

また、エアコン付きの車に乗り、顧客の所に行きたいとも思ったし、朝3時から鶏が合唱したり、隣の家の生活音がすべて聞こえる様な環境ではなく、鈴虫の鳴き声を聞きながら、満月を眺めながら、静寂の中で日本酒を一人静かに味わいながら、ゆっくり思考を深めたいと渇望した。
 
また、クラクションが鳴り響き、排気ガスを浴びながら、ゴミが散乱した陥没した道路を歩くのではなく、綺麗に刈り込まれた街路樹を眺めながら、季節の草木を楽しみながら、安全に路上を歩きたいと願った。

犬や猫(時には人間)の死体が、何日も路上に放置されていたり、ゴキブリが路上を群れを成して這い回っている様な環境をスーツを着て歩き回るのではなく、衛生的な環境でビジネスをしたいと思った。
マニラで郵便局に行こうが、官庁に行こうが、どこかの商店に行こうが、外国人と見れば、すぐに賄賂を要求されるか脅されたりしたが、そうではなく、心を穏やかに生活したいとも思った。

どこに行っても、「Money!Money!」と要求される様な社会で、金を持っていない人間はゴミ扱いされる様な社会ではなく、その人の心の在り様とか能力が、多少なりとも考慮される社会に住みたいと思った。
 
ビジネスマンとして、ビジネスに集中できる様なビジネス環境が、会社どころか国にも全く整っていないし、更に言えば、「そうした環境を提供する意思さえも、誰にもないのではないのか?」と思わざるを得なかった。
ビジネスマンとして、ここが一番、辛かった。
(と言うのも、マニラに行く前は、「フィリピンは貧しい国ながらも、経済的に、上昇しよう強い意思に漲っている『ビジネス志向の国』と勝手に思っていたからである。)
 
そう考えていると、上記の様なことは、「すべて、日本で当たり前に実現できていた事ではなかったのか?」と思うに至り、「フィリピンに来たことは、正しかったのか?」と自責の念にも駆られた。
「俺は学生時代も、そして社会人になってからも、勉強に仕事に人一倍の努力をしてきたつもりだったのに、この体たらくは何なんだ?」と自分自身に腹が立ったこともあった。(「自己のIdentityが崩壊するのでは?」と思うこともあった。)
 
しかしながら、そうした葛藤を抱えながらも、あの頃は、それ以上に、日本と言う国が大嫌いだった。
「日本に帰るくらいなら、フィリピンでホームレスになった方がいい!」位まで、日本の政治、経済、社会に絶望していたので、比国で努力を続ける以外に、オプションは無かった。
(何度でも言うが、その位、2001年当時の日本の政治体制や社会システムにうんざりしていた。)
 
そうした葛藤の中で、当時(2001年夏)、自分と約束した事は、「フィリピンに来たと言う選択自体が間違いだったかも知れない。
でも選んだのは自分であるのだから、逃げることはしない。兎に角、最低2年は、
死力を尽くして、ビジネスマンとして、ITエンジニアとして、努力してみよう!」という事だった。

「2年後には、シリコンバレーに行く!」と言う目標を立てて、その根拠の無い目標だけを信じ込んで、兎に角、全力でマニラでの月給3万円の生活を凌いだ。
悪徳警官から脅されれば脅し返したし、役人から告訴をちらつかせられながら脅迫されれば、あらゆる人的なコネを辿って、脅迫し返した。
悪徳不動産会社から騙されれば、知力を尽くして騙し返し、金を奪い返したし、ストリートで絡まれれば、一歩も引かずに戦った。
比国資本100%の中堅比国企業で働くたった一人の外国人として、差別されたり、侮辱されたりしても、にこにこ笑いながら、へっちゃらな顔をしたし、その悔しさは、仕事の実績(営業成績)で、お返ししようと思った。
 
今となっては、「なぜあそこまで、やったのか?」と思うこともあるが、当時は、「そこまでやらないと、あの国で、何のバック(会社のバッ
クや人的コネのバック)がない外国人は生きていくことが出来ない。自分の命を守る為には何でもやる!」と強く決意した。
 
兎に角、マニラでの生活(特に最初の2年)は、冗談では無かった。
毎日毎日が真剣だったし、「このまま悪徳警官に全財産を巻き上げられた上に、いわれの無い罪で刑務所にぶち込まれて、誰も助けてくれる事もなく、孤独の内に、のたれ死ぬのではないか?」と恐怖を感じたことも何度かあった。
 
上記の様な感じで、最終的には4年間に渡るマニラ生活でした。
次回は、もう少し、具体的に仕事や生活の問題を書きます。

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2009年10月12日月曜日

激闘!マニラでの4年間 (第2章 マニラ生活開始!)

2001年3月末の良く晴れた日の夕方、Philippines ManilaのNinoy Aquino Airportに到着した。
当時、無職でフィリピンに人脈なしの私には、当然ながら、迎えの車なんて来ない。
空港で、タクシーを捕まえて、Makati市にある、ビジネスホテルに移動した。
(因みに、土地勘の無い観光客は、マニラで普通のタクシーを乗るのは辞めたほうがいい。かなり、危険です。)
ホテルは、マニラ唯一といわれるビジネス街Makatiにある、中級ビジネスホテルで、一泊1500円位の所だった。
とりあえず、シャワーとトイレはついていると言うだけの質素なホテルだった。
「就職を決めて、住むアパートを確保するまでの滞在する。」と決めて、とりあえず1週間分を前払いで支払った。
着いた日は、ホテルの周りを歩き回り、ホテル近くのバーで一杯飲んだだけでホテルに戻り、翌日からの異国での就職活動に備え、英文履歴書の推敲等に費やした。
夜、ホテルの窓から外を見ると、よく晴れた空に、熱帯の星空が綺麗見えた。
遠くでコンサートをやっている様で、AbaのDancing Queenが聞こえてきたのが、今でもとても印象に残っている。
翌朝は、早く起きて、ホテルの周りのジョギングをして、気合を入れてから、就職活動開始。
事前に、当たりを付けておいた会社は、たったの2社だが、そこは、超楽天家の私だけあって、「何とかなるだろう!」と信じ込んで、いざ出陣。

因みに、2社とも、100%フィリピン資本のフィリピン企業。
その時点までの職歴は、大手銀行員4年(支店融資課、本部資金証券部)と通信機器メーカーの国際営業職3年。
また、この時点で、「これは!」と言うResume上のウリはなし。
ただ、ガッツとやる気だけを、前面に出し、自分を売り込んだ。
2社共、SI(システムインテグレーター)企業の営業職で申し込んだが、驚くほど、あっさりと就職は決まり(面接15分)、「来週から出社してください!」で決定。
入社した会社は、20年位の歴史のある会社で、従業員は200人程度の会社だったが、「外国人の採用は初めて」という会社だった。
給与は、勿論、現地スタッフと一緒。
具体的な給与は、月1万5000ペソ(当時のレートで3万円)の基本給で、プラス営業の歩合給。
(ただ、かなり高い売り上げ成績を出さないと、歩合給を貰うことは不可能なシステムで、1年3ヶ月勤務した私でも、プラスの歩合給を貰ったことは、3、4回しか無かったと記憶。)

当然だが、家賃補助、Visa代、健康保険等の諸手当は、一切無し。
勤務は月から土。つまり、週休1日制。
まあ、フィリピンのビジネス界のTypicalな給与モデルだったと思う。

住むところは、会社の総務の女性が探してくれた、Pasig Riverの近くの古アパート。家賃は5000ペソ(当時のレートで1万円)。
ガスはないので、お湯は出ない。
むき出しのコンクリートの床や壁の2部屋のアパートで、水シャワーとトイレが付いていた。
典型的なフィリピン人の庶民の生活エリアだった。
低地だったので、スコールが降ると膝まで水に浸かりながら、アパートの玄関から外に出た。
アパートの部屋には、いつもネズミが走り回っていたし。。。。
一番、辛かったのが、壁が薄く、通路が狭く、隣の部屋の生活音がすべて聞こえる事。
隣のFamilyはいつも大音量でテレビをかけていて、本当にうるさかった。
因みに、その後、日本に帰ってきて、誰からも不思議がられたのは、「なぜ、日本企業の現地採用の口を捜さなかったの?」という事と、「多少、蓄えもあった筈なのに、どうしてそんな安アパートに住んだの?外国人用のコンドミニアムだって、そんなに高くないでしょう?」と言う事。
理由は単純。
「自分の体力、知力、精神力の限界を、海外ビジネス界でチェックするのが目的なのに、海外まで来て、日本企業に就職するのでは意味が無い。」と単純に考えた。
一方で、直前に3年間勤務していた東京の通信機器メーカーが、本当に、無気力かつ怠惰かつ無能な会社で、トラウマになっていたと言う事もあると思う。
つまり、当時は、「すべての日本企業=あの駄目な通信機器メーカー」位に思っていたので、「日本企業に勤務する」ということは最初から、想定外だった。

もっと言えば、当時の日本の平和ボケと、当時の森首相に象徴される、あの「日本人特有の鈍牛さ加減」が、日本人として、本当に恥ずかしくて、「日本人と言う国籍を抹消したかった。」とか「日本と関わりたくなかった」という事も確実にある。
住まいについて言えば、確かに、月4万円とか5万円くらい払って、プール付きの外国人向けコンドミニアムに住むことも、蓄えを取り崩せば、経済的には問題は無かったが、「月給3万円で働くのだから、それに合わせた、それらしい生活をしよう。」と思い、敢えて、安アパートを選んだ。

それに、一切の身分保証が無く、身一つで、フィリピンに行った私にとって、あの5百万円の蓄えは「虎の子」だった。
だから、なるべく、それには手をつけなくなかったと言うのもあった。
兎に角、問題はあったが、あっさり就職は決まり、住むところも決まって、出だしは順調だったと思う。
これがスタートだった。
当時30歳。
さっきも書いた様に、住んでいたエリアは、典型的なフィリピンの住宅街で、汚いしうるさかった。
また、「ホコリを被り、排気ガスを浴びながら、屋台でビール付き、200円の食事をする」様な生活だったが、悲惨な気持ちは全く無く、挑戦者特有のウキウキした気持ちであった。

続く。

2009年10月7日水曜日

激闘!マニラでの4年間(序章 マニラへの道)

「激闘系ファイター」、20台後半の時に通っていた空手道場でそう言われていました。
大学卒業後に4年間勤務した北海道拓殖銀行が破綻して、東京にある「悪い思い出しかない中堅通信機器メーカー」で働き始めた頃の事です。
拓銀での仕事では、罵倒叱責されながらも、一生懸命仕事をして、それはそれで、充実した生活であったが、この中堅通信機器メーカーでの勤務は、本当にくだらなかった。

毎日毎日、ビジネスマンとしての気力や能力が、吸い上げられて行く様な錯覚に襲われた。
無気力かつ怠惰かつ無能な会社であった。
そんな仕事でのフラストレーションを、空手にぶつけた。
従って、あの頃の空手への打ち込みは凄かった。
今、あの頃の試合のビデオを見ると、技術的には、全然なっていないが、気迫だけは凄かったと感心する。

強い奴と組み手をして、何度も何度も上段回し蹴りを食らい、意識を飛ばしたり、
骨折したりしながらも、体を鍛えていると、いつしか私自身も肉体的に強靭になっていった。

そうなると、人間とは不思議なもので、仕事を通して得られる自尊心とか、勉強して資格取得して得られる自信とかとは、全く異次元の自信が得られた。
「それは何か?」と問われれば、自己に対する「絶対的な信頼」とでも言えば言いのであろうか。

昔、三島由紀夫が、「強靭な肉体に、健全な精神が宿る。」みたいな事を言ったが、正にそれを実感する瞬間だった。

当時、通っていた空手道場の先生が私に言った言葉は忘れられない。
「君は根性があるし、肉体的にも強靭だ。サラリーマンなんか辞めて、空手で身を立ててみたらどうだ?」
あの時ほど、グラッと来た言葉は、それまでの人生で無かった。
(あの時、もしそうしていたのなら、今頃、私は何をしていたのであろうか?小さな道場を開いて、子供達に、空手と勉強を教えていたりしていたのかなあ。)

兎に角、空手道場の先生がチラッと言った一言に、感激する程、あの「無気力な会社でのお遊び仕事」に、退屈もしていたし、ストレスも溜まっていた。
(私は別に優秀な人間ではないが、あの会社では、「この程度の仕事ならば、自己の能力の1%も使う必要がない。」と思っていたし、社内で、そう公言していた。何度でも言うが、本当に、エネルギーレベルの低い人間の集まった無気力かつ面白みのない会社だった。)

事態がここに至って、さすがに、真剣に、局面打開を考えるに至った。年齢は30歳。
あの当時の安易なオプションとしては、別の日本企業にさっさと転職すると言うものだったが、「それでは、イマイチ、ぶっ飛び方が足りない。」、「限界超越をしていない。」、「面白みがない。」と思った。
当時は、独身だったし、肉体的にも、もっとも強靭な時期だったし、気力も充実していた。

「失うモノは何もない。もし失敗しても、最悪、死ぬだけだ。今しかできない事、この世で俺にしかできない事をやろう!」と真剣に考えた。

また、「国際ビジネスマンを気取るなら、いまこそ、海外で裸一貫で、全身全霊を賭けたガチンコ勝負をしてみるべきだ!」と考えた。
頭に浮かんだ候補は、シリコンバレー、台湾、そしてマニラ。
結論は結構、簡単に出た。
シリコンバレーというのは、夢であったが(今でも夢だが)、あの当時の私では、技術的能力の観点からも、無理だと考えた。
また、向こうで、チャンスを探すにも、物価の高いカルフォル二アでは、チャンスを探す前に、私の方が財政破綻し、単なる「観光旅行」になってしまうのは、目に見えていた。(だから諦めた。当時の私の全財産は、5百万円。) 

また、台湾はとても面白そうだったが、中国語が全く当時、駄目だった私には、「中国語をある程度のレベルにまで引き上げるだけで、1、2年は軽く過ぎてしまう。」と考え諦めた。
目的は、語学留学でも、ましてや長期観光ではなく、「海外のシリアスなビジネス現場で、タフなビジネスをする事。
孤立無援な環境で、どれだけビジネスが出来るのか?」をチェックすること。
言い換えれば、「自分の知力、体力、精神力の限界を見極め、極限状態で自分がどうなるのか?」をチェックすること。

上記の基準から、マニラをあっさり選んだ。
「いざ、マニラへ!」、そう単純に思った。
しばらくして、会社の上司に辞表を出した。
(この上司については、「いつも背中を丸めて、お茶を「ズッ!」と音を立てて飲んで、
 泣き言をメソメソと言っている無力な初老男」と言う記憶しかない。)

上司 :「どうして辞めるのかなあ?ワーキングホリデーにでも行くのかなあ????」

貴公子 : 「マニラで職探しをします。」

上司   : 「へー、面白いこと考えるねえ。娘の友達が、スキューバーダイビングが好きで、フリーターをしながら、しょっちゅうフィリピンに行っているよ。」

貴公子 :  「はあ。」

上司    :「貴公子さんも、スキューバーが好きだったんだあ。そういう事が好きな人には、フィリピンは良いよねえ。」

貴公子 : 「そうではなく、マニラで職探しをして働きます。可能であれば、現地での起業も考えています。」

上司  : 「へえ。本気なんだあ。なんで、そんな事するの? 部長に、何と説明すればいいんだよお。。。」

貴公子 : 「ご理解頂けないと思いますが、自分のビジネスマンとしての裸の能力を外国でチェックしたくなったのです。」

上司  : 「わざわざ、苦労することはないよ。人生は楽に生きた方が良いに決まっているよ。苦労するだけ、馬鹿みたいじゃん。考え直そうよお。」

貴公子 : 「今こそ、自分なりの勝負を海外でする時期だと判断しました。」

上司  : 「そんな事、急に言われてもねえ。それに、部長が何と言うか。」

貴公子 : 「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません。では、私から部長に説明します。」

上司 : 「そうしてくれる? でも、海外に行きたいんだったら、心配しないでいいよお。君は、ウチのアメリカ子会社Admin担当駐在員の『次の次の次の候補』だよお。貴公子さんは、英語も好きじゃない。」

この「次の次の次」という言葉は今でも明確に覚えているし、今後も忘れる事はない。
正に、あの会社の緊張感の無さを象徴する言葉だと思う。
という訳で、何の躊躇もなく、退社した。
上記がマニラに行くことになった理由であり、経緯です。
拍子抜けする位、単純な理由で、馬鹿らしい理由とも言えるが、本当に、ただ、それだけの理由です。

別に、フィリピン人の彼女がいたとかそういう事ではありません。(笑)
ましてや、警察とかヤクザに、追われていた訳ではありません。(大笑)
マニラに行く1カ月前から、航空券の購入等の準備を始めた。
その間に、大学の友達との送別呑み会、空手の試合に出場、TOEIC受験等をした。
TOEIC受験は、旅立つ前の集大成として。
この時、なぜか、あの当時の英語力ではありえない920点が、まぐれ的に取れた。
何だかTOEIC実行委員会までもが、私のマニラ行きを応援していてくれている様な気がした。

すべてが終った2001年3月末、晴天の成田空港の昼下がりに、驚くほど、晴れ晴れした気持ちで、私は飛行機搭乗を待っていた。
当時、付き合っていた彼女が成田まで、見送りに来てくれており、空港内の小さなスタンドで、ビールを奢ってくれた。
続く。。。。。

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2009年10月1日木曜日

2社目。暗黒の3年間(本文) ~ 大学卒業後で、マニラ渡航前


大学卒業後、縁もゆかりもない北海道の銀行に4年間勤務しました。
そして、拓銀が死んだ(倒産)のが、1997年の11月14日。
(当時、札幌本部の資金証券部と言う部署で、銀行全体の資金繰りを管理しておりました。)
というわけで、1998年1月に、退職しました。
翌2月は、東京への引越し(独身だったので、とりあえず実家に帰る。)、
就職活動、やりたかったレンタカーでのアメリカ旅行(ロス、ラスベガス、グランドキャ二オン)2週間をしている内に、すぐ過ぎてゆきました。

3月から、働き始めたのが、東京にある某中堅通信機器メーカー。
(今でも、生きている会社ですので、ある程度、ぼかして書くのをお許しください。)
配属は、国際営業部門。
「安易に、入社したのが間違いだった!」と、入社して3日後には後悔しました。
2月に就職活動していた頃は、「あの倒産した拓銀のエリート部門出身者」と言う世間的同情もあったと思うし、当時、20台後半で英語もそこそこ出来た私は(当時、TOEIC800点台前半)、不景気な世相の中でも、転職市場でそこそこ人気がありました。

当時、面白そうな会社数社から内定をとった私が、「なんで、あんなどうしようもない会社を、よりによって選んだのか?」は、今となっては私も説明できません。
「魔が差した!」とか言い様がありません。
兎に角、勢いが無く、スケールの小さく、気が小さく、「どうすれば大過なく日々を過ごせるかを必死に考えている」様な人間ばかりの会社だった。
会社の業績は、右肩下がりが10年以上、当時、続いており、会社資産(主に会社土地)を切り売りしながら、何とか倒産を免れていると言う情けない会社であった。
(今でも、まだ同じやり方で、辛うじて、死を免れている。)
と言う訳で、入社3日後には、「絶対、辞めてやる!」と思ったのですが、またもや魔が差して、ダラダラと3年も勤務してしまった。

ただ、一つだけ守り通した事があった。
「この会社では、昇進試験を受けない。」と言うルールである。
半年に一回、「昇進試験(面接)を受けましょう!」と人事から言われたが、意地でも受験しなかった。
理由は簡単!
あんな会社でも、「中途半端に昇進すると、弱い自分は、またもや退職できなくなってしまうのではないか?」と怖かったから。
だから、昇進自体を拒んだ。

兎に角、入社して3日後から、辞めることばかりを考えていた。
当時、自分に課したルールは、他には以下の通りだった。
- 仕事はきちんとする。
高校生のアルバイトでもできる様な雑務であったが、 「給料を貰っている限りは、自分のプライドに掛けて、きちんとやる!」と自分と約束した。
勿論、正社員で残業代も出なかったけど、毎日、朝8時には出社し、夜9時、10時まで雑用を必死にやった。
3年間勤務して、遅刻ゼロ。
休暇も、1年に1週間程度の休みを秋に計画的に取る位で、それ以外の休み(病欠等)は一切取得しなかった。

- ビジネスマンとして言うべきことは言う。
上司、同僚が駄目すぎて、何を言っても無駄なのは、入社3日目には分かったが、兎に角、ビジネスマンとして言わなければならないことは、ビジネスマンのプライドに掛けて、どんなに無視されても言い続けた。

- 英語の勉強をきちんとする。
   あんなどうしようも無い会社で、情けない上司、先輩に囲まれていたが、少なくとも、国際営業部であったので、メールや電話等で、英語を使う環境にはあった。
そこだけは、今でも、感謝している。
あの頃、土曜日や日曜日は、家で(実家で)、一日中、CNNやBBCを聞いていたし、片道1時間半の通勤電車で、Japan Timesを読んでいた。

- 体を鍛える。
「兎に角、昼休みは30分、ジョギングをする。」、「週に最低3回は、会社近くの空手道場に行く。」を自分に課した。
あの情けない会社から、抜け出すためにも、兎に角、資本となる体だけは鍛えるべきだと考えた。
兎に角、公私ともに、暗黒の3年間だった。
今になっても、「拓銀の事は、良くも悪くもいい思い出であった!」と言い切れるが、この電機メーカーでの3年間(20台後半の3年間)は、「思い出したくも無い、くだらない3年間であった。」と自信を持って言えます。(笑)  
唯一、この3年間で有意義だったことは、英語力を少しは伸ばした事と、空手を必死にやって体を鍛え、その後の人生の土台となった事位でしょうね。。。。
とりあえず、そういう3年間でした。
何度でも言いますが、あまりにも情けない会社での、馬鹿らしいサラリーマン生活だったので、思い出したくもありません。
という事で、あの会社(あれだけ赤字を垂れ流しながら、今でも東証1部上場で残っているのが不思議)の事を書くのは、これで最後にしたく。
次回は、国際ビジネスマンとして開眼した、マニラでの「地獄だけど、充実した4年間」の事を書きたいと思います。
あの4年間は、本当に、素晴らしい4年間だった。
マニラでの思い出だけでも、残りの人生を生きていけると言う位、戦い抜いた、素晴らしい日々でした。

次回(激闘マニラでの4年間、序章)はその素晴らしい4年間について、書こうと思います。

暗黒の3年間(序章) ~大学卒業後、マニラ渡航前


本ブログのアクセス数がおかげさまで、1900を突破しました。
苦節1年超で、やっと達成です。(涙)
2000の足音が聞こえています。
 
MSNのMyspaceも使いこなしていると、日に日に、満足度が上がってきます。
実は、Googleのブログサイトに、引っ越そうかと考えていたのですが、しばらく、MSNのMyspaceを使ってゆく事にしました。
今後とも、本ブログを気晴らしに読んでやってください。
 
さて、Myspaceのアクセス情報分析機能を使うと、本ブログへ、皆様が「どういうルートでアクセスするに至ったか?」の概略を知ることが出来ます。
つまり、「どういう単語を検索したら、本ブログがヒットしたか?」を知ることが出来ます。
今のところ、英語資格試験系の単語(英検、TOEIC、TEPテスト)か、IT系の単語(Citrix Xenapp、Cisco、Windows2003サーバー、
Mysql、Oracle、Web Application、PHP、Javascript、RDP、ICA)のヒットが多いようです。
こんな分析が出来るなんて、Myspaceも素晴らしいですよね。
 
ところで、ある読者からメールをいただきました。
曰く、「貴公子さんが、大学卒業後、縁もゆかりもない北海道の銀行に4年間勤務して、その後、さらに3年後に、
フィリピンマニラに行き、4年間、フリーターをしていたのは分かりました。でも、銀行とマニラの間の3年間は、どこで何をしていたのですか?」との質問をいただきました。
分かりました。気が進まないけど、お話します。
私の暗黒の3年間を。。。。。
長くなってきたので、一回、ここで、お終いにします。
何とか今日中に、暗黒の3年間のストーリーをアップします。(笑)

2008年2月6日水曜日

真のSI営業マンとは?

今日は、少し仕事の話を。
日本のSI(システムインテグレーター)営業は駄目ですね。
私も日本のSIでの法人営業をやった事もあるし、また、事業会社のIT Managerとして、
SI企業の営業マンを迎えた事も何度もあるので、事情は理解しているつもりです。

SIの法人営業マンは、概して驚くほど、IT技術に関する知識や経験がありません。
昨日まで、自動車の営業マンをやっていた様な人が、SIでのソリューション営業なんて出来る訳ないのですが、 そういう知識・経験がない営業マンが殆どです。

ひとつエピソードを。
2004年の秋、東京で転職活動をしました。
本当は、ITエンジニアで転職したかったのですが、「4年働いた比国から、東京に緊急に帰らないといけない。」 と言う私的な理由もあり、焦っていました。
従って、エンジニアを第一希望としながらも、経験もそれなりの実績もあるSI営業職でも、職を探しました。
34歳の時です。

ある東証2部上場の中堅SIでの面接の時です。(ここには、営業職で申し込みました。)
SI営業のあるべき姿に関して、意見を交換したときに、面接官数人いらついた感じで、
「営業マンは客と酒を飲んで、ゴルフしてればいいんだ!後は、技術者がやる。」と言い放ちました。

「何たる浅い見識。何たる怠慢。」と瞬間的に思い、その場で大喧嘩です。
私の経験では、SI営業と言うのは、非常に高度な能力が求められます。
営業としてのビジネス作法や、交渉力、強い精神力や会計に関する知識に加え、IT技術に関する広範な知識が必要です。

私の持論では、「ITエンジニアは、狭い分野に対するマニアックな知識が必要であり、SI営業マンには、『広い範囲にわたり、中程度の深さの知識』が必要」と強く信じております。

よって、「IT営業マンの技術知識総量は、ITエンジニアのそれよりも、結果的に遥かに多くなる」と信じております。

しかしながら(さっきも言いましたが)、この業界で長く仕事をして思うのですが、SI営業マンは、 本当に何も分かっていない人が多い。(特に大手SI)。

また、技術者は「特定の分野やソフトウェアや機器に特化しすぎて、Network全体を俯瞰する知識や技量がない。」と認識しております。

従って、私は現在、大手企業のITマネージャーをしておりますが、SIに頼らずに全部、自分で構築する様にしております。
どうしても、自分で処理できない所だけは、問題点を絞った上で、その分野の専門家をSIから派遣してもらう様にしております。

と言うのも、SI営業マンとは会話が成立しないし、SIの技術者は、広範な知識を持っていなので、 自分の専門とするごく限られた分野しか対応してくれないからです。

そもそも、これだけIT技術が複雑かつ高度になってくると、外部のSIにアウトソースするという事が、 実は逆に難しくなるのではないでしょうか?
というのも、仮に、優秀なSIエンジニアがいたとしても、そういう人は、どこの顧客からも引っ張りだこになり、 とても特定の顧客のNetworkだけを担当する事はできません。
(昔みたいに、ちょっと優秀なITエンジニアが片手間で、数社の顧客のNetworkを管理する事は、今の時代では不可能です。)

現在、事業会社のNetworkは、優秀なITエンジニア数名がつきっきりで、メンテしない限り運用できないという技術的なハードルの高さを考えると、一般の事業会社は、自前で優秀なエンジニアを雇うしかないのではないかと思います。

もっとも、見つけるのは、とても大変ですが。
とりとめがなくなったので、今日はここでやめます。次回は、「SI営業マンに求められる技術知識」に関してです。

2008年2月3日日曜日

本当のマニラビジネスマン生活。。。


今日は、ちょっと気分がいいので、もう一本アップします。
午前中に行ったキックボクシングジムで、セミプロ相手に、久しぶりにスパーリングをやりました。
最近は、若くもないので(30台後半)、ジムに行っても、もっぱらサンドバックを蹴っ飛ばしている事が多いのですが、今日は思うところがあって、スパーをやり、コーチに「すっごくいいよ。」と
褒められました。と言う訳で、とても気分がいいのです。(大笑!)
本日、第2弾のテーマは、「本当のマニラビジネスマン生活」です。
日本人がマニラに住むと言う時は、日本企業からの駐在員として、あるいは、ダイビング等を
趣味にする人が、観光型長期滞在すると言う事が多いですね。
あるいは、現地の女性と結婚し、必要に迫られ、移住したいう方もいます。
その一方で、私が30歳の時にフィリピンマニラに行ったのは、もっと精神的なものでした。
当時、勤務していた東証一部上場IT機器メーカーや日本社会に心底幻滅したのが、きっかけです。
まあ、対外的な(表向きな)理由としては、「精神的かつ肉体的な限界を試したい。」と言うポジティブで単純なものでした。
結局、30歳からの4年弱を3社で過ごしました
(100%フィリピン企業、日比合弁企業、日系でも比系でも無い外資系企業)。
と言う訳で、単身、マニラに行き、現地企業に履歴書を持って売り込む事から始めました。
当時でも、TOEICは900点を超えていたので、まあ意思疎通は何とか出来ました。

比国での一社目(100%比国企業、1年3ヶ月勤務)では、月給は3万円でした。
勿論、家賃やVISA代や健康保険の補助は一切なしです。
20年位の歴史がある従業員200人程度の会社でしたが、日本人どころか外国人の採用は、
初めてと言う典型的なフィリピンIT企業でした。
(場所は、Makatiと言うビジネス街にありました。)
結局、ここには、1年3カ月勤務しました。
仕事は、IT機器とNetwork構築技術を売り込むと言ういわゆるSI(システムインテグレーター)の
セールスエンジニアです。
当時の私の技術力は、今と比べると数段低く、「よくあれでセールスエンジニアをやっていたなあ。」と感心するレベルでしたが、それでも顧客獲得の為に、月曜日から土曜日まで、朝から夜遅くまで、マニラやその近郊を、ジム二ーやトライシクルと言う現地の乗り物(駐在員は危険と言う理由で、乗車は禁止されています。)で、駆けずり回りました。

その後、縁があり日比合弁IT企業にセールスマネージャーとして、転職しました。
この会社もマニラにありました。給料は、月給8万円と一社目と比べて、3倍弱増と言う
セレブ(!?)な転職でした。ここには、10ヵ月勤務しました。
IT自体が本当に面白いと思い始めた時期なので、無我夢中になって懸命に仕事をしました。
ただ、日本の本社から派遣されているボスに当たる駐在員が、「たかが現地採用の癖に。」みたいな事を常に言うのが許せなかったのが原因で、
殆ど喧嘩退社でした。

その後、マニラ郊外で、もう一社(それも現地採用)に勤務しました。
ここは、 日系でも比系でも無い外資系企業 で、今度はIT部門のマネージャーと言う肩書きを頂き、
とてつもなく大きなComputer Networkの管理を担当しました。

給料は、前職の月給8万円に比べれば、更に数倍良く、仕事も楽しかったので、
「ずっと勤務したい」と思ったのですが、ある時、あれだけ絶望した日本企業と
日本社会に深い愛着を感じる事が発生し、1年半の勤務後、日本に帰国しました。
日本に帰国し、今は大手日本企業に在籍して、国際ITエンジニアとして、
海外を飛び回る生活をしております。

まあ、経歴はこんな感じです。
最近、よく現地採用志望の若者から相談を受けるのですが、私の結論は、以下の通りです。
「人それぞれ事情もあるでしょうが、止むを得ない事情を除き、途上国に行き現地採用スタッフになるのはお勧めできない。」と言うものです。
基本的に、「現地採用スタッフは、現地の人と同じ待遇がデフォルト」です。
従いまして、一社目のフィリピン企業の月給3万円は、他の日系企業に勤務する周りの日本人現地採用者と比べても、確かに低かったですが、2社目の日比合弁企業の現地採用時代(5年位前の話ですが)の月給8万円と言うのは、「まあまあの線」でした。比国で現地採用を4年弱しての結論は、「現地採用組の基本給料は、比国人スタッフと同じで(当然ですが。)、職種の専門性により多少の色が付く。」という事です。真に止むを得ない事情がない限り、途上国での現地採用は避けるべきです。本当に、甘くないですよ。変なロマンを持たない事です。
まあ、比国勤務に興味のある方はレス下さい。(出来るだけ、返事します16:32。)
比国の本当の姿は、それなりに分かっているつもりですので。