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2019年2月9日土曜日

【拓銀】 河谷元頭取とサシで話したい衝動に駆られております。

さて、昨日の事ですが、外出先の本屋で、元拓銀頭取である、河谷禎昌氏の回想録が平積みになっておりました。
本のタイトルは、「最後の頭取」です。


元拓銀で、河谷氏の下で破綻を迎えた貴公子は、勿論、この本に興味を持ちました。
河谷氏は、今まで、一切のインタビューに答えていなかったので、まあ、初告白ですね。
既に、80歳を過ぎております。

さて、本書ですが、字が大きく、文体も平易(過去の羅列)で、非常に簡単に読めるので、貴公子は、その書店で、30分程度で速読しました。

まず、素直で正直な方であるとは思いました。
貴公子とは、年齢も全然、違いますが、一緒に酒を飲みながら、拓銀時代を回想する事ができる、唯一の人であるとさえ、思いました。
(経営者としては、ダメだったけど、人間として、信頼できる気はしました。)

さて、書評です。
断っておきますが、Amazon Kindleで購入して、もう一度、じっくりと読むつもりです。
ただ、それはそれとして、速読レベルで感じた事は、実質的な破綻日(1997年11月14日金曜日)から、その週末にかけての記載が甘いです。
以前も書いたと思いますが、貴公子は破綻当日は、資金証券部に所属しており、銀行全体の資金繰りの裏の裏までを、把握しておりました。
もしかしたら、河谷氏は、破綻当日に本当は何が起きたかを、御存じないのかもしれませんねえ。。。(まあ、すべての事象は貴公子周辺の現場で発生したので、知っている訳はないですがね。)

暖かくなったら、家族で北海道旅行にでも行こうと思っていたので、コネを駆使し、河谷氏にお会いして、「あの日、本当は何が起きていたのか?」を話したい衝動に駆られております。
まあ既に、破綻から、20年以上経過し、完全に「時効」でしょうからね。

過去の話で、キャッシュバリューがある話どころか、かなり後ろ向きの話の上、未だに守秘義務があると思っているので、ブログに書くことはありません。
ただ、当時、最前線の現場担当者だった貴公子と当時の頭取の河谷氏の打ち合わせは、完全オフレコの前提で、有意義だと思っております。

2017年11月17日金曜日

拓銀崩壊20周年に、20年後を考える! (改訂2)

今日は、2017年11月17日ですね。
新卒で勤務していた拓銀が崩壊したのが、1997年11月17日ですから、ちょうど20年ですね。
日経でも、特集をやっております。→ 「拓銀」を超えて 破綻20年、危機克服と地域再生に挑む

そんな訳で、少しノスタルジックに掛かっております。
あれから20年かあ。。。
長い様で、あっと言う間でしたねえ。。。
そんな感慨に浸っております。

さて、話は飛びます。
司馬遷の史記は貴公子の愛読書ですが、もっとも心酔するのは、劉邦でも項羽でもなく、悲劇の大将軍韓信です。
韓信が劉邦に仕えたからこそ、劉邦は天下を統一できた訳で、それだけの功労者であるにも関わらず、最後は、韓信の才能を恐れた劉邦に天下統一後に、用済みとされ殺害されました。
正に、哀愁を感じる天才です。
韓信の事を考えると、いつもすべての事が諸行無常に思えるし、同時に下らなく感じます。

その意味では、拓銀崩壊ごときは、貴公子のその後の人生においては、何の影響も及ぼさない、超些細でアホらしい出来事でしかないと言い切る!
拓銀ライフは、当時も今も、貴公子のビジネスマン人生に於いて、何かしらの影響力を持つ要素ではありませんなあ。。。
ましてや、拓銀から人生の糧となる様な教訓を得たと言う自覚は、皆無です。
強いて言えば、記憶にも残っていない人生の通過点と言った感じであり、「青春の輝く1ページ」みたいに、朝日新聞的な美化をするつもりもありません。

ぶっちゃけ、拓銀どころか、今の大手IT企業での技術者生活も、前職の日系グローバル企業での海外勤務も、貴公子の比国4年の激闘フリーター生活に比べれば、冗談みたいなもんです。
「どんなに忙しかろうが、精神的なストレスがあろうと、物理的に撲殺されることはない。」と言う一点のみにおいて、比国時代とは比較にさえなりません。
あの比国時代をサバイブした貴公子にとって、過酷過ぎる状況と言うのはあり得ないです。
尚、30歳からの4年間のマニラ生活はこちらに詳しく書いております。
全9回シリーズの序章はこちら。→ 激闘!マニラでの4年間(序章 マニラへの道) 

拓銀崩壊から20年であり、貴公子のビジネスマン生活は24年目になりますが、自分の未来どころか過去さえも賭けて、本当に全身全霊で自己の知力の限界で戦ったのは、比国の4年間だけでしたね。

さて、20年後に貴公子はどうしているのであろうか?
おそらく、まだバリバリに働いていると思いますが、「好きな仕事を続けながら、家族と一緒にいれれば幸せ!」とか、ヤワな事を、貴公子は言いません。

兎に角、バトルが、徹底的に足りない!
血も報酬も、両方足りないと言っても良いかも知れない。

もっと言えば、あの比国4年間に対する、報酬を受け取っていません。
カネに換算できる様なものでは勿論ないが、敢えて換算したとすれば、年収1千万円とか2千万円とか、そういうレベルではないですなあ、あの4年間に対する適正報酬は。。。

そんな事を、拓銀破綻20年を機に考えます。
もう一度、勝負して、完勝するしかないでしょうね。
そうでもしないと収まりがつかない気が、急にしてきました。

ただ、次回の勝負は、ガッツ体育会でなく、もっと洗練した形でやりたいですね。

今夜の名曲です。
拓銀1年目の1994年の大ヒットソング、山根康弘のGet Along Together .


1992年のヒットソング。小野正利、you are the only...
この曲には、個人的に思い入れがあります。

2014年7月21日月曜日

(拓銀破綻) 真の理由をようやく理解した。

「北海道拓殖銀行の思い出」と言うシリーズは、本ブログの最初期のシリーズであり、1997年の拓銀破綻時に、新卒4年目として札幌本部に勤務していた貴公子の「10年後の思い出話」です。
一若手銀行員として、勤務中の間に、思っていた事を率直に書いたのですが、今読むと、かなり青い記載ですね。(恥ずかしい。。。)

今回の3連休では、元特捜検事で、後に弁護士に転身した、田中森一著の「反転」と言う、2007年に出版された本を、7年振りに読み返しておりますが、今になって、拓銀破綻の真実がよく分かります。
 
2007年にも、この本を読んだのですが、当時は、なぜか拓銀記載部分をさっーと、読み飛ばしてしまいましたね。
拓銀の本当の破綻理由は、この本に書いてあることが真実なのでしょう。
凄い衝撃を受けております。

要は、バブル期に大阪に進出した拓銀は、大阪で、大衆焼き鳥店の経営者から地上げ屋へと転じた中岡信栄に2000億円もの金額を、碌に担保も取らずに、系列のノンバンクを通じて、貸し込んだ。
貸した理由は、「バブルの波に乗り遅れた拓銀が、業容拡大の為に慌てていた。」と言うのが、今までの定説であったが、この「反転」と言う本は、そうではないと断じている。
要は、ヤクザ組織を含めた裏社会に拓銀大阪職員が徹底的に脅され、融資を強制されていた。
そして、ほぼ全額が焦げ付いたが、流れた2000億円の相応部分は、中央政界にさえも流れ込んでいたとの事。
要は、裏社会と表社会で、寄ってたかって、拓銀からカネを簒奪し、最後は用済みになり、捨てたと言うこと。
因みに、中岡も政治家も、誰も起訴勾留される事もありませんでした。
まあ、納得できる話ですね。

今まで、まともな経済誌で、この点を指摘した記事は見たことないが、これは事の次第がタブー過ぎるからでしょうね。
北海道の田舎者拓銀が、魑魅魍魎社会大阪で、寄ってたかって、裏社会と表社会からリンチを受けたと言うことです。
貴公子も含め、当時の普通の拓銀マンは、毎日深夜までの残業を続けて、ストイックに真面目にやっていたのですがねえ。。
言いたくもないし、思いたくもないが、「正直者がバカを見た。」と言うことですね。

まあ、分不相応な背伸びをすると、痛い目に合うと言う教訓かも知れません。
何か古巣拓銀が、可哀想になってきたなあ。笑。

何だかんだ言っても、新卒で4年勤務した拓銀には、特別な思いがあります。
あの頃の同僚とは、ここ15年位、全く接触がないが、みんな元気にやっているのであろうか?
拓銀に、合掌!

2009年11月15日日曜日

拓銀元頭取、有罪確定!

拓銀の元頭取が、実刑確定との事です。

「97年に都市銀行で初めて経営破綻(はたん)した旧北海道拓殖銀行の巨額融資を巡り、商法違反(特別背任)に問われた元頭取の山内宏(82)と河谷禎昌(さだまさ)(74)両被告の上告審で、最高裁第3小法廷(那須弘平裁判長)は9日付で被告側の上告を棄却する決定を出した。ともに無罪とした1審判決を破棄し2人を懲役2年6月の実刑とした2審・札幌高裁の逆転有罪判決(06年8月)が確定する。」

記事全文は、ここです。→ http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091112ddm012040025000c.html


河谷頭取時代の4年間、私は拓銀に勤めていたけど、あの頭取のVisionの無さと言うか、根性・決断の無さは、若かった私には、衝撃的であった。

まあ、課長レベルがせいぜいの度量の方でしたね。

彼が、頭取に就任した直後に、銀行内でたまたま会ったけど、子供みたいに、ホクホク顔で喜んでいる単なる好々爺でしか無かったですから。

本来ならば、重責に恐れおののく、緊張感が必要な筈でしょうに。。。。

「無知の知」ですよ。自分の能力を客観的に分析し、頭取の就任依頼を断ることが必要でしたね。

まあ、本人達には、それなりに言い分はあるんだろうけど、たっぷりと塀の中で反省してください。

2009年2月10日火曜日

拓銀破綻の根本原因 Vol.4 (最終回)

この件に関し、書き連ねるのは、結構、エネルギーが要ります。
と言うのも、基本的に、私も当事者の一人なので客観的に分析するのが難しい上に、破綻した元会社の悪口を結果として書いている様な気がして、罪悪感に駆られるからです。

しかし、そう言いつつも、国際ビジネスマンとして、冷静に分析する義務の様なモノも感じます。
兎に角、このトピックはこれが最後です。
剛速球で行きましょう!

「こまやかなお付き合い。」←これが拓銀の会社としての標語でした。
私が3年間勤務した道内地方都市の支店では、愚直に、この標語を実践していたと思います。
例えば、たった一組の高齢者夫婦の数千円の集金の為に、、車で片道30分も掛けて訪問した事も、何度もあります。
また、私はその支店勤務の2年目には、その支店で「住宅ローンのエキスパート」と呼ばれ、その後の2年間で100件近くの住宅ローンを実行しましたが、そのローンの実行金額は、
ほとんどが1千万に満たないものでした。東京の水準で考えれば、マンションの頭金にもならない取るに足らない金額(失礼をお許し下さい!)ですが、
こうした小さいローン実行の為には、地場の信金と競合してでも取りました。
そして、前回書いた様な、それ以外の預金集め等の仕事にも、自分なりに全力を尽くしました。
兎に角、馬車馬の様に、必死になって働きました。

入社3年目の一時期、残業時間が200時間を越える月が、3ヶ月位続きましたが、それでも誰一人と文句も言わず、休みもせず、黙々と働いていました。
後になって聞いた事ですが、この支店で当時一番、お客さんから預金を集め、各種の表彰を受けていた数年上の先輩は、個人のお客さん(この街は高齢者がとても多かったが)を訪問する際に、米とか肉とかを自腹で「お土産」として持っていて、土下座しながら、預金をとっていたとの事でした。

このように、私も含め、この支店では全員が全員、上意下達の体育会系の雰囲気の中、何かに怯えるように、必死に働いておりました。
こうした「激務」は青春のいい思い出ではありますが、残念ながら、「企業価値を高める」と言う意味を持ちえなかった。
と言うのも、「こまやかなお付き合い」の標語が一人歩きをし始めて、支店の上層部も含め、誰も制御できなくなってしまったからです。

例えば、こんな事がありました。
ある時、酔っ払った中年のおじさんが、融資の私の窓口に来て、「複数のサラ金から借りているカネを
一括返済したいから、俺に融資しろ!」と言ってきました。
私は、「申し訳ないが、そういうローンはないので、当行では無理です。」と答え、お引取りを願いました。
ただそれだけの話ですが、この事で、支店の先輩と上司から散々、罵倒されました。
曰く、「あのおじさんだって、10年後には資産家になっている可能性が無くはない。そう考えれば、もっと親身になって、事情を聞いて上げるべきだ。
それが、『こまやかなお付き合い』の趣旨だ。」とか何とか。。。

つまり、拓銀は、ある意味いい人すぎた。そして、市場経済を無視し過ぎた。
資本主義的に言えば、資産のある客や地域の優良な会社のケアに全力を尽くすべきなのに、「こまやかなお付き合い」を唱えすぎて、
最後は、地場の信金でもやらない様な、超リテールと言うか採算度外視のボランティアの様な営業に傾斜していった。

上の描写がピンとこないのならば、高級ホテルを例に、考えてみればいいと思います。
5つ星のホテルには、従業員にも、それなりの余裕が必要です。
そうした余裕が、プレミアムな客を引き寄せえることにも結果として繋がるからです。
しかし、その4つ星とか5つ星の余裕が全くなく、常に何かに追い立てられるように、馬車馬の様に、利益を全く生まない超リテール業務に傾斜して行きました。

本来、地域のLeading Bankとしてのブランドを確立すべきであったのに、「こまやかなお付き合い」の標語の元に、
社員を馬車馬の様に働かせ、思考する能力を奪い去り、ロボットへと改造した。
粗野で喚き散らすだけのヒステリックな上司とか、ひたすら「お客様の為に!」と唱え続けている感傷的な上司先輩が支店内に蔓延していた。
そして、ビジネスマンとして普通に持つべき判断力や思考力をもった人物が、決定的に不足していた。
ひたすら、皆が皆、ビジネスマンとしては未熟であったと思うし、人間として「幼稚」であった。
「大人としての余裕」が誰にもなく、ただ、狂ったように、支店長や本部に、屈服し服従していた。
プロフェッショナルとしての自覚が、全員に欠けていた。

今になって思えば、拓銀は、「こまやかなお付き合い」を唱えるのではなく、北海道のスーパーリージョナルバンクとしてのブランドを確立し、
北海道内のハイエンドなクライアントのみに特化すべきであったと思います。
同時に、「こまやかなお付き合い」と言う一見、「美しく、誰も否定できない響きをもつ言葉」の中に潜む魔性の洗脳力に我々は気づくべきだったし、
その「狂った標語」にNOと言うべきだったと思います。

最後に、拓銀に合掌します。
このブログをもって、私個人の中で、何かが整理できました。
今後は、国際ビジネスマンとして、前向きなネタを書きたいと思います。

2009年2月7日土曜日

拓銀破綻の根本原因 Vol.3

誤解無い様に断っておきたいのですが、私は、基本的に、拓銀には今でも感謝しております。
「大学卒業したばかりの若造で、何の実績もない癖に、異常に生意気であった私」に対して、名刺の渡し方、挨拶の仕方から教えてくれたのですから。
こうした基本教育は、あの当時は、「馬鹿らしい!」と思っていましたが、今となっては、その後のビジネスマン生活に、非常に役に立っていると思います。
まあ、少なくとも最初の1年間は、まったく戦力になっていなかったどころか、支店の先輩の足ばかりを引っ張っていたと思います。
そんな私を、根気良く教育してくれた先輩方には、深謝しております。

と一応、断った上で、拓銀破綻の原因追求を続けたいと思います。
最初に配属された道内地方都市の支店で、入社3年目に体験した市場原理を無視した「馬鹿らしい話」について説明したいと思います。
(既に破綻した会社ですが、旧社員の私には今でも道義的な意味で、守秘義務があると考えるので、ある程度、ぼかして記載をします。御理解いただきたく。)

流動性預金の一種である「貯蓄預金」の口座獲得キャンぺーンというのが、拓銀全支店を挙げて展開されました。
普通預金の様に、出し入れは自由、それでいて金利は高い。ただし、残高10万円以上と言う縛りのある商品です。
もちろん、流動性危機(つまり資金繰り悪化)に悩む当時の拓銀にとっては、貯蓄預金に限らず、預金残高を増やす事は、至上命題でしたから、
このキャンペーン自体は、意味のあるものです。
こうして、私の支店も、口座獲得に邁進しました。
ある程度、大きな支店であった私の支店は、順調に口座数を伸ばしていきました。

キャンペーン期間の途中からは、札幌市内の大きな支店と、獲得口座数で、上位を争うレベルにまで、達しました。
その時、支店の上層部は、何をトチ狂ったのか、「全支店内で必ず一番になれ。」と指示を出しました。
しかし、人口が10万人超の我が地方都市では、もちろん限界があります。
しかしながら、この狂った指示を受け、上意下達の意識の強い、支店の中間管理職以下は、またもや何も考えないロボットへと化しました。

というのも、キャンペーンの最初の頃は、入金10万円以上で、「正しく口座獲得」をしていたのに、
この指示(命令)が出てから、「初期入金千円でもいいから、口座を作れ。」になり、その次には、禁じ手のゼロ新規、
つまり「入金ゼロでもいいから、口座数を増やせ!」になりました。
そして最後には、支店の職員全員に対し、「おまえ達の親戚全員の名義で、口座を作れ!」になりました。
実際、私も東京に住んでいる親や親戚の名義で、口座を作りまくりました。
(それも一人の親戚名義で、2口座とか、3口座を。)
確か、私だけで20口座位は、親戚名義で作ったと思います。

こうした「営業努力」により、ウチの支店は、札幌市内の複数の大店を抑えて、トップになりました。

そして、営業努力賞として、本部から役員が来てPartyが始まり、記念品が贈呈されました。
その横では、わが支店長が、ぺこぺこしながらも、満面の笑みを浮かべていました。
支店のある中堅職員は、そのPartyで、もっとも口座獲得に功労があったと持ち上げられ、スピーチをしました。
曰く、「トップに立つのを諦めそうになった時もあったけど、頑張って良かったです。。。。」と中学生でも言わないようなコメントを発しました。
そして、支店職員全員で拍手と乾杯。

しかし、こうした作業が、いかに無意味で馬鹿な事か説明するまでも無いでしょう。
あの当時、口座を一口座作ると、銀行全体では、口座維持の為の潜在的な費用として、
年間1000円以上が銀行内部の事務処理でかかると言われておりました。
今でも同じな筈です。
ですから、一部の外資系の銀行等は、年間残高平均が30万円以上でないと、口座維持手数料で、年間、数千円を徴収するという事をやっております。
「経費を掛けて、Human Resourceを割いて、利益の全くでない幽霊口座を作りまくる。」事に何の意味があるのか?
どうして、支店幹部や中間管理職は、こうした馬鹿な行動を止められかかったのか?
そして、本部の役員こそ、この手の「点数稼ぎ」を強く静止すべきなのに、Partyで酒を飲んで、ふんぞり返っている。
そして、我々、一般スタッフは一般スタッフで、なぜ、何の疑問も持たず、ただ指示には従っているのか?
なぜ、全員が全員、思考停止状態に陥ったのか?

この事象が象徴する拓銀行風の問題点はたくさんあると思います。

つづく。

2009年2月6日金曜日

拓銀破綻の根本原因 Vol.2

直球でいきましょう。
まず、拓銀破綻の原因に関し、内部にいた人間として、忌憚ない分析を加える前に、
世間一般で言われていることに反対したいと思います。

旧拓銀行員の同窓会的サイトでも、よく書かれていることだし、また、他の破綻銀行(長銀とか)
の破綻分析本にも、よく書かれていることで、下記の記述をよく見かけます。
曰く、「銀行員は優秀だ。」

しかし、拓銀に4年間在籍した私に言わせれば、拓銀行員が、すくなくてもビジネスマンとして、ある
いは、社会人として優秀だと思ったことは、一度もありません。
むしろ、「世間一般よりも、劣っていた!」とさえ思います。
(他行の行員については、よく知らないので、コメントを控えますが。)

確かに、外部の人から見ると、優秀そうには見えたと思います。
細かい服装規定に基づき、身なりを固め、髪型にまで細かい規定があり、言葉遣いは慇懃無礼な程に丁寧で、更には感情を押し殺す訓練まで受けているので、外部の人には、優秀そうに見えたでしょう。
しかしながら、私は道内地方都市の比較的大きな支店で、大学卒業後3年間(その後、札幌の本部で1年間)在籍しましたが、入行直後から、異様な違和感を感じました。

怖い程に、上意下達で、中堅スタッフどころか、支店長クラスでも、「成人した大人として、普通に持
っているべきである問題意識というか批判精神」が全くなかった。
例えば、こんな事がありました。
道内地方支店勤務の1年目の時(1994年冬)、本部の組合スタッフが、ウチの支店にやってきて、「当行は大丈夫だ。経営状況は改善に向かっている。明るい気持ちで頑張りましょう!」と、支店の中堅以下のスタッフに演説をしました。
私は、あまりの能天気さにあきれました。
1994年冬には、一般の雑誌にも「拓銀の経営危機」は報じられる様になっていたからです。
私は、質問せずにいられませんでした。「経営状況が上向いていると判断する根拠はなんですか?」
本部から来た組合スタッフは、面食らった様な顔ながら、自信に満ちた顔で答えました。
「○○常務が、そう言っていた。」
そして、私の支店のスタッフは、全員が全員、納得した顔で拍手して、オシマイ。

つまり、一般の社会人が、普通に持つ批判精神とか、あるいはビジネス上の議論を、夜を徹してでもやうというような熱い心が、皆無でした。
「先生がこう言っていたでしょう!だから、いいんだよ。」的な小学生的なメンタリティーが拓銀内に
蔓延していましたと思います。

私は、この会議以前も以後も、いろいろな会議に出席しましたが、この手の質問は、他の誰もしませんでした。と言うのも、拓銀的には、こうした質問は、「挑戦的な質問」であり、質問後に独身寮や支店内で、先輩や上司から、激しくなじられたからです。
激しくなじられる度に、「あーー。『拓銀大好き。拓銀の前途は洋々』と言った顔して、ニコニコ座っ
ていればいいのに、また馬鹿な事を言ってしまった。なじられるだけ損だから、次からは黙っていよう!」と思うのですが、いろいろな会議で、色々な人が現実離れした能天気な事、あるいは「いまそこにある危機」から目を逸らすような事を言う度に、つい言ってしまうのでした。
おかげで、わたしはずっと変わり者扱いでしたね。

支店の日々の仕事でも同じです。
融資課にいる時、「この取引先は絶対にやばい。即融資を回収すべきだ。」と申請書に書いただけで、「あの社長がこの前、泣いていたのに、それを無視するのか?」と、かなり的外れな罵倒を課長から受け、それでも、「でも、うちは会社であって、ボランティア団体じゃないでしょう。」と言い返したら、「おまえには人間の心がない。人間性を磨け」と皆の前で、罵倒されました。
つまり、この課長は、そして、更に上司も、あるいは平のスタッフも、全員が全員、波風を立てずに、
日々を大過なく過ごす事だけに関心があり、面倒くさい事には触れたくないと言う雰囲気が蔓延していました。
(この場合では、惰性で融資を続けること。言い換えれば、何も考えないことが尊重されました。)

この様に、すべての人が、すべてに無関心で、ビジネスマンとして当然持つべき熱い心がなく、
それでいて、上に対しては、兎に角、ぺこぺこしていました。
こういう集団のどこが優秀なのか?
本当に理解に苦しみます。

つづく。

2009年2月3日火曜日

拓銀破綻の根本原因 VOL.1

久しぶりの更新です。
実は、思う所があって、ブログの更新を止めていたのですが、やはり思う所があって、再開することにしました。
という訳で、また始めます。
再開の一発目は、ずばり「拓銀破綻の根本原因」です。

このテーマを選んだのは、一義的には、大学卒業後に新卒で入社した会社(北海道拓殖銀行)の事を、最近、なぜか良く思い出すからです。
(ただ、単にノスタルジーに浸っているわけでもありません。)
もう一つの理由としては、拓銀破綻に至る根本原因が、現在に至るまで語られていないと感じ、このまま風化してしまうのを恐れるからです。
(誰か指摘するだろうと思っていたのですが、誰も指摘しないので、私が指摘すると言う感じです。)
また、「なぜ今更?」と言われれば、現在の金融危機の時にこそ、元破綻会社の社員の意見として、
「『他山の石』的な価値」が生じていると考えるからです。

因みに、破綻した企業や業績不振な企業の多くが、実は、同じ「根本原因」を抱えていると推測されますので、是非、このブログをお読みになって頂き、
御意見等も頂ければ、光栄に思います。
と言うのも、こういった言った経営学的な問題は、私にとっての永遠の課題だからです。

では、始めます!
確かに、インターネットサーフィンをすれば、ウィキペディアを始めとして、「拓銀破綻」の原因を分析するサイトは沢山あります。
そして、拓銀破綻の原因に関しては、ウィキペディアの記事に書かれている事が、表面的にはすべてです。
曰く、「北海道を地盤とし、バブルの波に乗り遅れた焦りから、無理な融資に走り、バブル崩壊と共に自壊した。」との分析です。
正しいと思います。
実際に、この論点は、私が拓銀在職中から、よく言われていたことだし、破綻後の日本経済新聞の分析記事もその辺がポイントでした。

ただ、内部にいた私に言わせれば、これらの論点は、ジャーナリストや銀行業界関係者が、現象面のみを精査した結果物であり、内部からのみ見えた「根本原因」とは、残念ながら、必ずしも一致しません。
その辺を踏まえて、「根本原因」と考えることに事に関し、書こうと思います。

別にもったいぶっている訳では無いのですが、ここまで書くのに、予想以上時間がかかりました故、続きは、もう少し待ってください。(誰も待っていないか。。。)
今週中には、続きをアップします。