2011年8月30日火曜日

激闘マニラでの4年間 (第9章。終章、そして、あの4年間の総括)

本シリーズはこちら。→ 激闘マニラの熱い夜

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序章から購読していた(笑)読者の方には、繰り返しになりますが、結局のところ、30歳であった2001年4月に色々な理由があり、比国に単身渡り、フリーター生活を開始し、33歳までの2004年12月まで4年弱に渡り、現地で勤務しました。

渡航当時は、いっぱしのビジネスマンのつもりでしたが、比国のSI企業勤務してすぐに、自分のITエンジニアとしての知識・経験の無さ、及びビジネスマンとしての甘さを痛感しました。
ただただ、一生懸命に、愚直に、正攻法でSI営業をしましたが、かの国のビジネスカルチャー、言葉の問題(英語ではなく、タガログ語)、そして日常生活のすべてで、壁にぶち当たり、深く苦悩しました。

まあ、私も若かった!
あの月給3万円の「極貧生活(笑)」と危険と隣り合わせの日常の中、さらに、先の見えない、どん詰まり生活の中で、よくヤケになる事もなく、努力を続け、生き延びる事が出来たと思う。
もう一度、同じ事をやれと言われても、もう出来ませんね。(笑)

一般の日本のビジネスマンにとって、30歳前半は、本来、人生の一番楽しい時期ですよね。
と言うのも、所属する企業で、仕事も一通り覚え、重要な仕事も多少は回ってくる一方で、後輩も増えてくるので、嫌な仕事をある程度、ぶん投げられるし(笑)、何より、独身なら、ある程度の金もあるので、真っ赤なスポーツカーでも乗り回して、一番、女にモテる時期ですよね。。。。
そういう楽しさは、私の場合は無縁であったので、多少、心残りはありますねえ(笑)。

貴公子の場合、30歳前半は、正に人生のどん底であり、正念場でありましたねえ。
ビジネスマンとしてのプライド、空手家としての不屈の根性、そして日本人としての誇りだけを最終的な軸として、文字通り、死に物狂いで働き、そして、ど突き合いの中で、生き残った!
(勝ち残ったのではなく、殺されなかったと言うのが、正直な感想です。)

「尻尾を巻いて、日本に逃げ帰ること。」は、自分の未来だけではなく、自分の過去のすべてを、否定することだと言い聞かせて、かの国の腐敗官僚や、悪徳不動産屋、街中のチンピラ、そして、現地採用の人間を人間扱いしない、かの国に赴任している「日本企業の駐在員様(笑)」と、うんざりする様なせめぎあいをし続け、そして、生き残った。

楽しい30台前半ではなかったが、Global BusinessをFieldレベルで推進するビジネスマンとしては、いい勉強にも、貴重な経験にもなった。
まあ、高すぎる授業料ではあったと思うが、元は何とか取り返したと思っている。

何度も本件に関し、メールをくれたBさん、Dさん、Zさんに、言いたい。
簡単に、「あなたも閉塞感を感じているのなら、東南アジアに単身乗り込んで、自分の力だけで、生き抜いてみなさい。」とは言えません。
なぜなら、怖さとか、恐怖を、自分の肉体を通して知っているからです。
ただ、これだけは言えます。
「日本の一般的なビジネスマンなら、30歳前後で、失うものなんて、何も無い筈です。守るべきものなんて、何一つ無いのに、そんな気になっているだとしたら、一生、冒険はできませんね。市役所かなんかに転職した方がいいと思います。その方が、ある程度、安定し、保証された人生を送れるでしょうから。仮に、野垂れ死んだって、平均よりも40年位、寿命が縮じまる位の事で、大したリスクはない。」とだけ言っておきます。

要は、「貴様の命なんて、貴公子の命同様に、大した価値はない。世の中に不可欠な人間なんていない。」と言う事です。

無事に、数年後に日本に戻ってくることになったら、その際は、一杯、東京で行きましょう !

1 件のコメント:

  1. やはりあなたの行動力には頭が上がりません。僕もあなたに続きます。

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