2009年11月23日月曜日

激闘マニラでの4年間。(第3章。現実に目覚め始めた数ヵ月後。)


前回までに、フィリピンマニラにある比国資本100%の企業で、仕事を始めた事を書きましたので、ここからは、フィリピンでの仕事と生活を書かないといけないのですが、正直、あまり書きたくありません。
この後ろ向きな気持ちが、本件に関し、更新が遅れた理由です。
とは言いつつも、今日は、頑張って書いてみます。(笑)
 
張り切って、マニラにあるフィリピン企業で、月給3万円で働き始めたまではいいのですが、数ヶ月も経たない内に、現実を思い知る事になりました。
皆さんには、想像もつかないでしょうが、一般的なフィリピン人居住エリアで、外国人が一人で住む難しさや、純粋なフィリピンの会社で外国人が一人で働くことの困難さに、次第に気がつき始めました。

「200円でビール付きの夕食を屋台で食べる。」という事を、最初の数週間は、確かにエキサイティングに感じたし、ジムニーやトライシクルという乗り合い自動車や乗り合いバイクに、乗ること自体に興奮したのも束の間で、数ヵ月後にはうんざりし始めておりました。
「『いらっしゃいませ。』と迎えられ、席に案内され、水とおしぼりを持ってきてもらいたい!」 つまり、Serveされたいと心の底から思い始めました。

また、エアコン付きの車に乗り、顧客の所に行きたいとも思ったし、朝3時から鶏が合唱したり、隣の家の生活音がすべて聞こえる様な環境ではなく、鈴虫の鳴き声を聞きながら、満月を眺めながら、静寂の中で日本酒を一人静かに味わいながら、ゆっくり思考を深めたいと渇望した。
 
また、クラクションが鳴り響き、排気ガスを浴びながら、ゴミが散乱した陥没した道路を歩くのではなく、綺麗に刈り込まれた街路樹を眺めながら、季節の草木を楽しみながら、安全に路上を歩きたいと願った。

犬や猫(時には人間)の死体が、何日も路上に放置されていたり、ゴキブリが路上を群れを成して這い回っている様な環境をスーツを着て歩き回るのではなく、衛生的な環境でビジネスをしたいと思った。
マニラで郵便局に行こうが、官庁に行こうが、どこかの商店に行こうが、外国人と見れば、すぐに賄賂を要求されるか脅されたりしたが、そうではなく、心を穏やかに生活したいとも思った。

どこに行っても、「Money!Money!」と要求される様な社会で、金を持っていない人間はゴミ扱いされる様な社会ではなく、その人の心の在り様とか能力が、多少なりとも考慮される社会に住みたいと思った。
 
ビジネスマンとして、ビジネスに集中できる様なビジネス環境が、会社どころか国にも全く整っていないし、更に言えば、「そうした環境を提供する意思さえも、誰にもないのではないのか?」と思わざるを得なかった。
ビジネスマンとして、ここが一番、辛かった。
(と言うのも、マニラに行く前は、「フィリピンは貧しい国ながらも、経済的に、上昇しよう強い意思に漲っている『ビジネス志向の国』と勝手に思っていたからである。)
 
そう考えていると、上記の様なことは、「すべて、日本で当たり前に実現できていた事ではなかったのか?」と思うに至り、「フィリピンに来たことは、正しかったのか?」と自責の念にも駆られた。
「俺は学生時代も、そして社会人になってからも、勉強に仕事に人一倍の努力をしてきたつもりだったのに、この体たらくは何なんだ?」と自分自身に腹が立ったこともあった。(「自己のIdentityが崩壊するのでは?」と思うこともあった。)
 
しかしながら、そうした葛藤を抱えながらも、あの頃は、それ以上に、日本と言う国が大嫌いだった。
「日本に帰るくらいなら、フィリピンでホームレスになった方がいい!」位まで、日本の政治、経済、社会に絶望していたので、比国で努力を続ける以外に、オプションは無かった。
(何度でも言うが、その位、2001年当時の日本の政治体制や社会システムにうんざりしていた。)
 
そうした葛藤の中で、当時(2001年夏)、自分と約束した事は、「フィリピンに来たと言う選択自体が間違いだったかも知れない。
でも選んだのは自分であるのだから、逃げることはしない。兎に角、最低2年は、
死力を尽くして、ビジネスマンとして、ITエンジニアとして、努力してみよう!」という事だった。

「2年後には、シリコンバレーに行く!」と言う目標を立てて、その根拠の無い目標だけを信じ込んで、兎に角、全力でマニラでの月給3万円の生活を凌いだ。
悪徳警官から脅されれば脅し返したし、役人から告訴をちらつかせられながら脅迫されれば、あらゆる人的なコネを辿って、脅迫し返した。
悪徳不動産会社から騙されれば、知力を尽くして騙し返し、金を奪い返したし、ストリートで絡まれれば、一歩も引かずに戦った。
比国資本100%の中堅比国企業で働くたった一人の外国人として、差別されたり、侮辱されたりしても、にこにこ笑いながら、へっちゃらな顔をしたし、その悔しさは、仕事の実績(営業成績)で、お返ししようと思った。
 
今となっては、「なぜあそこまで、やったのか?」と思うこともあるが、当時は、「そこまでやらないと、あの国で、何のバック(会社のバッ
クや人的コネのバック)がない外国人は生きていくことが出来ない。自分の命を守る為には何でもやる!」と強く決意した。
 
兎に角、マニラでの生活(特に最初の2年)は、冗談では無かった。
毎日毎日が真剣だったし、「このまま悪徳警官に全財産を巻き上げられた上に、いわれの無い罪で刑務所にぶち込まれて、誰も助けてくれる事もなく、孤独の内に、のたれ死ぬのではないか?」と恐怖を感じたことも何度かあった。
 
上記の様な感じで、最終的には4年間に渡るマニラ生活でした。
次回は、もう少し、具体的に仕事や生活の問題を書きます。

本カテゴリーはこちら。⇒ マニラの熱い夜

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